チヌア・アチェベ「崩れゆく絆」。


  「アフリカ文学」に全く心得がないこと、最近仕事が忙しいこともあり、読書がフィロソフィアの課題本とIT関連本だけで食傷気味だったという2点の理由から、参加を決意。課題本にしては思ったより短く、読了のハードルは高くなかった反面、人名や固有名詞になじみがなく、「これ誰だっけ…?」(そもそも人じゃなかったりする)となってしまうことも少なくなく、読みやすいのか読みにくい、よくわからなかった。


父になりたくなかったオコンクウォ、村に殉じたオコンクウォ

  オコンクウォは「男」を目指した。それは、父が弱い男だったから、そんな父には絶対になりたくないと思ったから。しかし、せっかく自分が村一番の強い男になったとしても、息子のイケメフナは弱く、自分よりは父親に近い人間だった。

  オコンクウォは親友がいたとは書いてあるが、第一部のオコンクウォは孤独なようにしか見えなかった。オコンクウォは「神託の決定・権威」に従いイケメフナを殺した。そしてイケメフナを殺したことで罰を受ける。結局オコンクウォは流刑となり、オビエリカというオコンクウォの親友も、オコンクウォの家を壊した。彼らは「大地を清めた」。

オコンクウォは強くなった。そしてオコンクウォは村から排除された。
これだけ読むとオコンクウォは悲惨な運命をたどったようにしか見えないが、オコンクウォはどう思ったのか心情が直接書かれていないことに気付いた。

「自分は女型の罪を犯してしまったのだから、当然である」
オコンクウォが「男」を目指していたのであれば、この罪は当然のこととして受け入れていたのだろうか。そんなことを考えた。


崩れた絆、新たに生まれた絆

  オコンクウォは廷吏を鉈で殺し「なんでこんなことやっちまったんだ」と言う声を聞き、て自殺をする。そして自殺したオコンクウォの死体は、「私達の手では埋葬できない」というオビエリカの訴えも虚しく、オコンクウォの死体は片付けられる。
  オコンクウォは宗教と教育によってばらばらにされてしまった一族を、女々しく軟弱になってしまった男を嘆いた。しかし、僕は一方でこうも思う。

「宗教と教育で、これまでの男らしさから逃げられた人も少なからずいたんだろうな」

このことは、解説でも触れられている。

「注目すべきは、真っ先に回収して植民地支配の側につくのが、共同体から抑圧を受けてきた者たちであることだ。(中略)しかし同時に、キリスト教は植民地支配の論理と結びつき、社会が独自に変革し刷新していく能力と機会を、暴力的に、そして永久に奪い去ってしまうことになった。」

  「崩れゆく絆」という言葉からは、尊い何かが失われてしまったというニュアンスを感じる。少なくともオコンクウォにとっては間違いなくそうであった。しかし、弱い者にとってその絆は、「しがらみ」「抑圧」として自らを苦しめる、決して手放しで賛同できるものでは無かった。そういった者にとっては、絆は足首に巻き付いた重しである。その重しを取るのがキリスト教である。キリスト教はおそらくそういうノウハウを持っており、それに気付いたのが弾圧を行った江戸幕府と、「ルサンチマン」という言葉でキリスト教の価値転倒を喝破したニーチェだった。


  読書会では他にもたくさんトピックがあったのだけど、終了後に振り返りを書こうとすると、意外と思い出せず書きにくかった。せっかく取れ高(?)が多かったのに、すごくもったいない気分である。次回から何か対策を立てようか、とすら思う位には今回の読書会は本当に楽しかった。

  同卓の皆様・設営サポーターの皆様、ありがとうございました。