好きな本はなんですか?


こう質問されるとその時の気分で思い浮かぶ作品は変わってくるけど、夏目漱石の『こころ』だけは必ず名前を挙げてしまう。しかしこの作品、あまりにも王道すぎて口に出すのはちょっとだけ勇気がいる。「あぁ、名作ですよね」の返しは素直に受け取っていいやつですか。本好きな猛者たちが集う場だと特にヒヤヒヤしてしまい、そんな時は一緒にガルシア=マルケスの『族長の秋』を並べたりする。『百年の孤独』じゃないところが重要。いや、この選択が正しいのかもちょっとわからないけど。そんな面倒な思いを抱えながらも、好きな本の看板から『こころ』を下ろさないのは、この小説が初めて参加した読書会の課題本だからである。


当時の私は本について語れる友達がいなかった。映画なら一緒に観に行って、終わったらお茶しながら感想を言い合えるのに、本だと急に難しくなる。ある日、仲の良かった友人が恋人と二人で読書会したら楽しかったよ、と報告してくれた。羨ましくなって私とも読書会やろうよと誘い、友人もノリノリだったにもかかわらず、課題本は読んでもらえなかった。やっぱ友情より恋ですよね~と少しだけ拗ねたこともある。
朝活ブームとともに読書会が流行りはじめても、そのほとんどが紹介型の読書会だった。たった2時間で初めましての人が紹介した本を本当に読んでくれますか?友達ですら読んでくれないのに?なーんて。別に疑っている訳じゃないけど、私は同じ本を読んでその感想について話し合いたいのだ。


そしてなんかよくわからないけど検索に検索を重ね、偶然見つけたのが猫町倶楽部だった。
見つけてからもすぐには参加できなかった。はたしてこの団体は今も活動しているのだろうか。少人数の仲良しグループだったらどうしよう。変な壺とか売りつけてこないかな…。新宿で出会うキャッチのお兄さんに「こんなに心を開いてくれない女性は初めてだよ」と言わせるぐらい用心深かった私はそのホームページを遠くから眺め、一晩置き、口コミを検索し、できる限りの調査を行って、怪しくはなさそうだし、ちゃんと活動もしているようだと結論付け参加ボタンを押した。なによりも課題本の存在が大きかった。『こころ』なら高校の授業で読んだことがあるし、人見知りな私でも話せそうな気がする。


とはいえ、みんな本に詳しいだろう。熱狂的なファンもいるに違いない。そう考え、とりあえず本は2回読んだ。読みながら考えたことをノートに纏めたりもした。最初の感想を求められたら何をいうかまで練習し、それでもまだ不安で、前日から急にネットを徘徊し、見知らぬ誰かさんの考察ブログを読み始め、ウィキペディアも頼ってしまった。会場がある代官山に着くギリギリまで、スマホで小ネタを調べていたことを思い出す。


会場に入り、案内されたテーブルにはタツヤさんが居た。この読書会の代表ですと紹介され、心の中でひぇっと叫んだ。なんか偉い人が隣にいる。この方につまらない人間と思われたら、ショックで二度と本を読めないかもしれない…というのは大袈裟だが緊張はピークだった。自己紹介では「的外れな感想を言ったらごめんなさい」と前置きし、自分に対するハードルを下げれるだけ下げた。1テーブルの人数は6~7人、性別も年齢もバラバラだ。自己紹介が一通り終わり、順番に感想を話す流れになった。変なことを言わないように…、そう思いながらも、私には勇気を出して話してみたいことがひとつだけあった。


それはふすまの重さだ。
私(先生)とKの間には一枚のふすまがあった。鍵もかけられない、片手で簡単に開け閉めできる、なんなら指でちょいと突っつけば簡単に穴があいてしまうふすま。それなのに私もKもそのふすまを開けることができなかった。たった一枚のふすまがなんて重いのだろう…みたいなことを話したら、なんとタツヤさんが相槌を打ってくれた。
私の心のふすまがパーンッと音を立てて開いた。
そこからはあっという間で気がつけば読書会の時間は終わっていた。事前に調べてきたことは何一つ話さなかった。


無事に読書会デビューを果たした私はその後も猫町倶楽部に顔を出すようになった。ネットで他人の意見を調べることはやめた。いいのか悪いのかわからないけど、課題本を読み終わるのがギリギリになる時もあった。訳のわからない本であればあるほど、読書会の中で新しい発見があり嬉しかったし、大好きな本が課題本になった時は他人の感想を聴くのが楽しかった。読書会に限らず、遊んだり、ご飯を食べに行く仲間が増えた。オンラインになってからは場所を気にせずいろんな人と本の話ができている。


あのとき私はこころのふすまを閉じたままにしなくてよかったと思う。


突然こんなブログを書いたのは、『こころ』が再び課題本になったからです。
この1冊があったから、やっぱり本が好きだなぁ、と思いながら今日も読書会に参加しています。