21/2/21に参加したハン・ガン『菜食主義者』読書会の感想です。(通算28回目)
同じテーブルだったみなさん、ありがとうございました。

久しぶりにすごい小説を読みました。
好きや嫌い、わかるわからないでくくってしまえば、好きでもないしわからないのだけれど、それでもすごいものを読んだという感じがします。
私は、実際に書かれていたことと、自分が想像したことがごっちゃになってしまうことがよくあります。読書会もメモを取っているけれど、走り書きの字は自分でも判別できないほど乱れていて、しかも断片的なので、あまり役にはたちません。
でも私が書きたいのは、考察ではなく、この本を読み、読書会に参加して、自分の感情がどう動いたのかということです。
うまく書けないのはわかっているけれど、書いてみます。

読書会でフェミニズム文学という言葉が聞かれて、私も読む前はそういう先入観があったことを思い出しました(「82年生まれ、キム・ジヨン」の影響だと思います)。
私は読み進むうちに、女性という言葉ではくくれないと思いました。
けれどそれは私が女性だからかもしれません。彼女たちが置かれている境遇が私にとっては当たり前だから、女性ならではの問題に気づきにくいのかも。これは私が無意識のうちに枠の中に囚われているという証拠なのかもしれません。
それでもやっぱり、この物語はもっと大きい気がします。

植物が怖いんです。
いや、怖いというのとはちょっと大げさですね。私にとって植物は穏やかな存在ではありません。どちらかというと、暴力的で強いイメージです。
私の実家は戸建てで、小さな庭がありました。そこに曾祖母が植えたノウゼンカヅラがありました。ノウゼンカヅラはツル科の植物で、夏にはオレンジ色の花が次々と咲き、濃い緑色の葉が生い茂ります。切っても切ってもすぐに伸びてきます。落ちた花や葉の掃除で、祖母と母は大変そうでした。私もいつか家がノウゼンカヅラに飲みこまれるんじゃないかと思っていました。
実家のリフォームの時に切ったのですが、それでも地中に残った根は生きていて、数年は春先に芽を出していました。
人間がたった百年で死んでしまうのに、植物は千年以上生きている例もあります。アスファルトの割れ目から芽を出し根を張り、人が住まなくなった家を飲み込んでいきます。ちょっと目を離すと庭には覚えがない草がぼうぼうと茂っているなど、植物は淡々と私たちの暮らしに侵食してきます。
「菜食主義者」を読んで、ノウゼンカヅラを思い出しました。あのオレンジ色の花、濃い緑色の葉。
声を持たず移動することもできないけれど、生命力にあふれていました。

主人公のヨンヘが、ある日見た夢を境に一切肉や魚や卵を食べなくなり、周囲がそれに対して怒ったり、懇願したりするのは、彼女に家族の中での役割を果たさせようとする圧力だと感じました。
従順な妻、おとなしい娘、可愛い妹、そういう家族の中での役割をヨンヘは拒否しているんだなと。
そして周囲が彼女に怒るのは、ヨンヘが自分たちの望む立ち位置からずれてしまうから。決められた場所にいてくれないと、自分たちが不安になるから。不安を解消したくて、それが叶えられないから怒る。だけど彼らがそんな自分の心にすら気づいていないのがむなしい。

読書会で「韓国の肉料理はおいしい」という話題が出て、私も焼肉が好きなので、確かにあれを食べないのはもったいないなあと考えていました。
今になって気づいたんですが、ヨンヘは「私は肉を食べないの」と言うんですよね。
「食べられない」でも、「食べたくない」わけでもない。可能性や嗜好の話じゃない。
食べないという状態に自分を置くことに決めたということ。
これは病気の話じゃない、決意の話、決めた人の話なんだ。
ヨンヘはもう彼女は他人を必要としない。だって決めてしまったのだから。

私にはヨンヘの姉、インヘの物語がいつまでも残っています。
インヘは夫に裏切られ、幼い息子をひとりで育ていて、家族に絶縁された妹の面倒を見て、経営者でもある。
彼女にはやるべきことがたくさんある。自分の時間はほとんどない。日常をやり過ごすだけで精いっぱいの彼女は、一度その舞台から降りようとした。首をくくるロープを持って出かけたけれど、目的は達せずに家に帰った。
不正出血があり病院に行くときは、死への恐怖と一緒にこれで終わるという安堵もある。そして、病気が軽症であると知ると、肩を落とす。
どこまでも続く疲れの中で彼女は生きている。

インヘは妹のヨンヘを入院させる。彼女が回復する見込みはないわかっていて、それでも心のどこかではせめて人並みの暮らしができるほどになることを望んでいる。
ヨンヘに「なぜ生きていなければならないの?」と問われて、答えることができない。
大切な人に、苦しくても生きていて欲しいと願うのは、もうエゴだと思います。
インへに残っているのは擦り切れてぼろぼろになった愛情と責任感だけ。
ヨンヘはただ横になっていて、一切の食べ物を受け付けず、でも爛々と生きている。私には幹を切られたノウゼンカズラのように見えます。切り倒され、土の中で根だけになってもしたたかに生き続ける植物の強さをそこに感じます。

食べ物を受け付けないヨンヘに、医師や看護師がチューブを直接胃に差し込んで栄養をとらせようとする時、あまりにも苦しそうな様子にインヘはやめてと静止するのだけれど、この方法がとれないなら転院するしかないと言われて一緒に車に乗り込むところ、私はもうやめてこんなのひどいってずっと思っていました。
インヘ、インヘ、選ばなくちゃだめ、転院したらまたこれが続く、苦しそうな妹を見て処置を止めさせたのはただの反射、車に乗り込んで新しい病院に向かうのもただ流されているだけ。
立ち止まって、考えて、ヨンヘの命について選択しなきゃいけない、あなたが。

回復する見込みのない人に対してそれでも生きていてと願うこと、それは当然だけれど、看病する側もされる側も苦痛が続く。
正しい選択なんてそこにはない。
だけどそれでも選択を迫られる時がある。インヘのように。

菜食主義者は私には命の物語でした。
たぶん大多数の人に突き付けられる「その選択」が、あまりにも生々しく描かれていて、結末は問いかけるようなものだったので、読んだ直後は気持ちの整理がつきませんでした。今もそう。
課題本にならなかったら、この本の存在を知らずにいたはずだし、自分だけの読書だったら読んだ後も延々と考え続けることはなかっただろうな。
読書会に参加してよかったと思える本でした。ありがとうございました。