二村組読書会「手の倫理」参加しました。

個人的にものすっっごく面白くて響いた本で、読書会中も懇親会中も、誰もの話題がぐいぐいしみ込む感覚がすさまじかったです。
「さわる」こと「ふれる」こと。
今回、作中でいう所の「ふれる」「生成モード」「倫理」の可能性と強みをとても感じたわけですが、読書会を経てよく振り返ってみると、ああ私は「さわる」ことつまりは伝達モード性(ある意味無責任性、不干渉とリスク回避)の、<安全性>に頼りすぎてきたきらいがあるなあと思ったりしました。
生成モードの強みは、肌感覚でうっすら理解して欲してもいるのに、そんな余裕はないからと意図的に回避したこともあったようななかったような・・・
うー-ん、時間的精神的余裕、というのも生成モードには必要なんでしょうか。


ところで読書会中にはさすがに話が飛びすぎて出せなかったんですが、
「手の倫理」を読んで思い出した映画がありました。
濱口竜介監督の「ハッピーアワー」です。
http://hh.fictive.jp/ja/

前のブログにも書いたんですが、この6時間近い(!)映画の中の初めに、主人公たちは
「重心を感じる」という、他者と体を接触させて相手を感じとるというワークショップを行うんですね。このワークショップ全編がほぼ収録されています。
相手とひたいをつけあってエネルギーを感じ合う、互いの腹部に手を当てて相手を感じる、背中合わせになって互いを押し合って立ち上がるetc。
これはまさに、「触れる」とこの本で言及される要素を映像で見ているようでした。
このワークショップのあと、主人公のひとりは「すごく嬉しかった。こんなの久々」と述べてとある決断へと進んでいくのですが、このワークショップの過程に、鑑賞者である私も「触れる」モードの立ち上げを促され、後半の映画が非常に、これまでになく自分事に引き付けて(いつも二村さんが仰るように)感じられる様になったんです。


なんとなく、ドライブマイカーの朗読劇にしても、濱口監督の作品にはそういう「下地作り」が作中にある気がして、だからなのか異様に、内面をのぞき込まされるような感覚になるんですね…他にあまりない映画体験のこれは何ぞやと思っていたところ、つまりは「触れるモード」強化体験なんではないかと。
そう考えると、今や「触れる」「生成モード」とは、少し意識して行っていかないとさび付きかねないものなんだろうか。などと思いました。



…そんなことを思い出したので、気になるなあという方はぜひ。
(ちなみにですね、作中に出てきた「相手と私の間に棒を挟んで動きあう」というセッションとかも、濱口監督の他作品「不気味なものの肌に触れる」に出てきてました。
監督、この本や関連本読んでいるのかしら??などと。)


まだまだ考えたいことが広がり続ける読書体験&読書会でした!!
サポの皆さま、ご一緒いただいた皆さま、ありがとうございました。