自分の頭の中では
「道徳≒必然性」、「倫理≒偶然性」
で捉えてました。


    道徳に求められているのは余計にはみ出ないこと、想定の範囲内でとどまること、それは必然性とニアリーイコールだと。
    だから、道徳に従って行動すればそれは大きく失敗するものではない。人を傷つけることはないし、自分が傷つくこともない。まさに「安心」なコミュニケーション。


    一方、倫理に求められるのは必ずしも必然性だけでは測れないもの。手で触れた相手がどのような反応をするかきちんと考える必要はありながら、絶対的な答えが出ていない状態で相手に干渉する行為。そこには相手をある程度理解し、「信頼」する必要がある。
    その信頼をもとに相手の世界に入り込もうとするのが「倫理的」な態度といえそうです。
    と、こんな風に書いておきながらですが、こちらが相手を一方的に「信頼」してしまって行動してしまう危険性も全くないとは言えないわけで。
    ある種の認知のゆがみで一方的な「信頼」を抱いていたらそれはコミュニケーションが図れているとは言えなくて。
    自分だけが「信頼」していても手の倫理で書かれているようなコミュニケーションは得られないんですよね。
    あくまで自分と相手がお互いに「信頼」しあっているからこそ、倫理的に触れることは実現できそうです。


    今回の読書会は身体性の話が勿論中心にはなりましたが、身体的な「触れる」に対する重要性は認識しつつ、その身体性へ行く前に「言語」もやっぱり捨てきれないなと思ったのが読書会を終えての一旦の感想でした。
    身体的な接触から得られる情報や快感は言語から得られるものとはおそらく異なった種類のものでしょう。ただ、いきなり身体接触を伴うことって自分には無理です。
    その境地にいったんチャレンジするためには言葉で「ふれる」ことも同時に考える必要がありそうな気がしました。
    言葉の使い方も「さわる」、「ふれる」って分けられそうですよね。
    仕事で使う言葉ってどちらかというと「さわる」。過剰にパーソナリティの奥深くに入り込む必要はないからある種淡々と突っ込む。
    それと比べるとプライベートや恋愛で使うのは「ふれる」。人のパーソナリティの細かいところを知ろうとして使う言葉の使い方。
    先ほど書いた一方的な「信頼」を回避するためには、言葉で徐々に「さわる」「ふれる」ことが伴ってくるのではないのかなとは思います。
    LINEをしててもなんかないでしょうか。あるいはふとした雑談でも。
    「これ、ちょっと突っ込んだ書き方しちゃった」とか、「この言い方、まずかったな、、、」とか。自分結構ある気がします。「さわる」「ふれる」の境地に行くのは難しそうです。


    話が少しずれたんですが、身体であっても言語であってもコミュニケーションで面白いのは「偶然」から引き起こされるものであって。
    道徳的な行動で必然に出てくるものは安心だけど、予測できたものだから面白味のあるものではない。
    一方、倫理的な行動はその場のグルーヴで判断するので多少のブレがあって、その行動から招かれる結果が予期していなかったものかもしれない。その結果次第では「偶然」距離が縮まるかもしれないし、「偶然」嫌われるかもしれない。その不確実性に興奮するのが人間らしさなのかなぁと思います。
    なんで予測できないものに興奮するのかなとも思いますが、人間の本性的にギャンブラーなところがあるんでしょうか。
    身体が触れることに得る情報も必然的なものではなくて。触り方によって得られるものが全く異なるという意味では「偶然」。その偶然に癒されるかもしれないし、不快感を感じるかもしれないし、快感を感じるかもしれない。
    そうなんですよ、「ふれる」ことって主体的に動かないと手に入れられないものなのにそこから得られるものが不確定ってよく考えると凄いですよね。それでも人は「ふれる」を捨てない。
    偶然性の素晴らしさと恐ろしさを呑みこんで人は倫理的に行動する。
    そんな偶然性への信頼がよりよき「手の倫理」になるのかなと思いました。