最近ラウンジにも参加させていただいたので、試しにブログ書いてみます。

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5/23(日) ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』の読書会に参加しました。
昔々自分がまだ大学生の頃、フランス現代思想なるものがエライと思ってみすず書房の本を色々と本棚に並べていたものとして、バルトの事故死をテーマにした小説だというこの本は出たときから気になっていました。猫町の課題本となった今こそ読む機会なのだと手に取って読書会に臨みました。

実在した思想家を登場させた荒唐無稽なミステリーですが、一読者としてはストーリーより何よりも、この本はどれだけローラン・ビネが仕掛けた「ネタ」を見抜くことができるのかの勝負だ、と思いました。ということで、読書会の会話の中で気づいたことも含めて書き出してみます。

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・アルチュセールが妻のエレーヌを絞殺する原因となったエピソードは、ラカンの『エクリ』に収められた「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」のパロディ。絞殺したのは実際に起きたことなので、大胆だけど面白い趣向。これはわかりやすい基本ネタ。難易度2くらいか。

・BHL (ベルナール=アンリ・レヴィ)は1976年までミッテランのアドバイザーを務めていた。バルトの病室にソレルスとクリステヴァと現れたのは、彼がミッテラン側のスパイとして二人の行動を見張っていたから、と読むと楽しい。

・2018年にクリステヴァがブルガリアの諜報機関に協力していたことが機密文書の情報公開で明らかになった。クリステヴァのネタはブルガリア共産党にとって大した役には立たなかったという話だが、ビネはそれが公になる前なのに、まるでそれを知っていたかのようで素晴らしい。なお、クリステヴァの言い訳(まだ生きてた!)はブルガリアに残した家族に配慮したためということだが、本作中にクリステヴァから父への手紙が書かれていたのは偶然にしては驚き。現実も小説もどっちも奇なり、という珍しい例。

・ときおり小説内に「作者」が顔を出すのは、ロラン・バルトが宣言した「作者の死」への対抗なのだろうか。『物語の構造分析』をもう一度読みなさいと言われているような気がする。

・デリダが死んだのは2004年。第三部イサカで、ここで殺しちゃうのかと思ったが、1980年では実在のデリダはまだ死んでないので、いやいやどこかで生き返ってくるんだよね、俺は知ってるよとか思っていたら結局最後まで生き返らなかった。ミステリー謎解き的観点で死んでもらわないといけない事情があったのは最後にわかったが、墓地で犬に食い殺させるなんてやりすぎでは。

・一方でデリダの死の後に自殺させられたジョン・サールは2021年の今もまだ存命。こいつまで果たして死なす必要あったのかとも思ったが、サール=デリダ論争の相手を殺しちゃったら、殺してしまわないと釣り合わないと思ったのかな。AIの議論で有名な中国語の部屋を論じた論文を出したのがちょうど1980年。というようなことを調べるためにwikipediaを見ていたら、2017年に84歳で24歳の助手にセクハラをしたかどで訴えられて2019年に大学を追放されている。フーコーを超えて現実の君が実は一番下衆で破廉恥だったかという意外なるオチが用意されていて素晴らしい。

・デリダが偽の言語の七番目の機能を即興で作った、という設定は、ヴェネチアにおいてソレルスがロゴス・クラブで理解不能な弁論を行うことを通して、デリダのテクストへの痛烈な批判になっている、と言っていいはず。冒頭にデリダの言葉を配しているが、たぶんローラン・ビネはデリダのこと嫌いか馬鹿にしているんだろう。

・ソレルスが去勢されたのはバルトの著作『S/Z』の分析対象となった『サラジーヌ』の主人公が去勢した歌手であったこととも関連しているというのはちょっとこじつけか。ソレルスが自身の著作『女たち』でクリステヴァ、バルト、ラカン、アルチュセールなどの実在の人物に仮託した小説を書いているので、まだ存命だがこれくらいしても文句あるまいと思ったのだろうか。

・第五部パリの1981年5月の全仏オープンの決勝は、小説の通りボルグとレンドルでフルセットまでもつれたところまでは本当だが、レンドルが勝った小説と違って実際にはボルグが勝って、全仏4連覇、6度目の優勝を飾っている。「自分が小説の登場人物ではなく、現実世界に生きている証拠がほしい」と思いながらこの試合を見ていたシモン。敢えて現実と違う結果を書くことで現実ではないということを虚構である小説の中でも表現したということか。赤土のクレーコートのローラン・ギャロスとロラン・バルトのRolandが共通であることは偶然ではあるまい。ちなみにローラン・ビネは綴りが違うみたい。残念。

・エピローグのナポリの地震の復興でカモッラというマフィアが多額の復興資金を着服した話は本当の話。ひどい話だ。

・分からないのは日本人二人組がなぜあんなに主人公の味方をしてくれるのか。バルトが日本びいきだったからか。ちなみに第一部で、日本料理について語り、箸は食べ物を虐待しない、とか、いつも食べる人の前で作られるのは敬っているものの死を人前にさらすことによって神性化する(ちなみに、すき焼きのこと)、とかは創作ではなく実際にバルトが『表徴の帝国』の中で真面目に語っている話 ―― おかしな話だ。

・ちなみに主がいなくなったバルトの部屋に置かれていたヤコブソン著『一般言語学』で、シモンが触れた「魔術的もしくは呪術的機能」について書かれているのは、第四部詩学、手元のみすず書房の第10刷でP.190である。確かにリトアニアのおまじないもロシア北部の呪文も本当に書かれている。これは嘘作り話ではなかった。疑ってごめん。きっと栞はこのページに挟まれていたんだな。

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それにしてもつくづく、フランス現代思想は言葉遊びが過ぎたものだと思いました。でも、それがよいところでもあります。
なお、NHK 100分de名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』で次のようなエピソードが紹介されています。

「ジョン・サールが、フーコーに対してなぜあんなに難解な書き方をするのかと聞いたところ「フランスで認められるためには理解不能な部分が10%はなければならない」と答えたという。そのことを、さらにブルデューに話したところ、「10%はだめで、少なくともその二倍、20%は、理解不可能な部分がなければ」と語ったという」

この本を読むにあたって本棚から引っ張り出したバルトがやっぱりわからんなと思っていると、石川美子さんという方が『零度のエクリチュール』、『記号の帝国』(旧版『表徴の帝国』)、『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(旧版『彼自身によるロラン・バルト』)といったところを訳し直していることに気が付きました。その石川さんが、中公新書から『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』というロラン・バルトの紹介本を出しているようなので、まずこれを読んでみようかなと思ってkindleをさっきポチってみました。また、わからなさを楽しもうと思ってます。