『しかしこれらの諸問題はまだ申し分なく知りつくされているわけではないから、読者には、このように野心的で早熟な綜合理論をまだ疑ってもいい権利がある。ここでのわれわれのねらいは、記号学的な諸現象のもつ重要さ、というか、実際にはそれこそ第一の優先問題だということをはっきりさせることであった。そのために、すべての文化はコミュニケイション体系(あるいはもっと正確には体系群の総体)として定義される、ということを確認したのであった。』
(ピエール・ギロー「記号学」意味作用とコミュニケイション)

良かった。もう少し記号に関することは脇に置いておきます。

本当は、折角ローラン・ビネ「言語の七番目の機能」の読書会に参加したのだから「記号論」についてももう少し考えたりしたい欲はありますが、今回はもう少し寝かせます。これまでもそうしてきたわけですし、うっかり踏み込むとたぶん深みに足をとられてしまうような気がしますから。

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読書会の冒頭で誰が好きですかと尋ねられました。実在の人物に限定しないのであれば、私はバイヤールです。駅が爆破されたとき、瓦礫のなかから埃まみれでジャン・バルジャンのように忽然とあらわれる姿はなかなかに格好がよいではありませんか。そのときの「車を借りるぞ。この分だと、今日は鉄道は動かんだろう」は人生でいつか言ってみたい台詞です。

実在の人物であればオースティンに親近感を覚えます。すいません、この小説世界の中では既に亡くなっています。けれど実在の人物の中で読んだことがあるのはオースティンだけなのです。どうせお話なのだから死んでいる人も蘇らせて登場させてしまえばよかったのにと思います。

オースティンに親近感を覚えるのは彼の発話行為論を面白いと思って少し考えた時期があるからです。断捨離してしまいましたが「言語と行為」もハードカバーで持っていました。機会があればもう一度Kindleで買ってきちんと読み直してみたいと思います。

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小説として楽しめたかといえば、正直にいうとちょっと微妙です。ロゴス・クラブのシーンはソレルスがケチョンケチョンにやられるというかグズグズに自滅するシーン以外は迫力がありました。けれども、その他のシーンは悪ふざけが過ぎてあまり楽しめませんでした。たとえばラストの火山のシーン、まるで火曜サスペンスです。ボローニャのアルキジンナジオにせよ、イサカのキャンパスの風景にせよ、訳のわからない日本人にせよ、底が浅い描写だと感じてしまいました。面白いと思った方、申し訳ないです。

ところどころ良いところもあるのです。たとえば、「会話とはつまるところ、粘土でできたボールを打ち合うテニスの試合のようなもので、ボールはネットを越えるたびに形を変えてしまうのです」なんて台詞はちょっと気がきいています。

ただ、落ち着いてよくよく考えると、テニスボールが一番衝撃を受けて変形するのは、ネットを超えるときではありません。ラケットによる打点においてです。そしてもしテニスボールが粘土でできていれば、ラケット面に接触したその瞬間、ボールはグシャとへばりつきながらガットの隙間から惨めにこぼれ散るはずです。

それは、ロゴスを扱う小説として脇が甘いにもほどがあると思うのです。ロゴス・クラブなら、即、腕の1本や2本はもがれてしまいます。吉本新喜劇ならズコーンとずっこけるシーンです。

好みだとは思います。ただ私には、小松左京の「日本沈没」に対して筒井康隆が「日本以外全部沈没」を書いてしまったような負けっぷりのように思えます。せっかく「馬の首風雲録」や「虚航船団」など面白いものを書けるのに「「できすぎるパロディーを書かれた原作者はいつまでも根に持つ」ような類いのものを書いてどうするんだと思うのです。ああ、話がすっかりそれました。

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結局、私の中で残った課題はオースティン「言語と行為」再読、「ファイト・クラブ」「薔薇の名前」ということでしょうか。

すくなくとも「ファイト・クラブ」を観たら、好きなシーンだったのでロゴス・クラブのところは読み直してみたいと思っています。