「雪国」という小説で、現実の生を生きているのは、駒子だけではないだろうか。

    駒子について知ることは多い。東京で、「お酌」をしていたこと。受け出されたが、旦那が1年半ほどで死んだこと。温泉では三味線と踊りの師匠の家に暮らし、その息子は病気で、駒子がいいなずけであると周囲から見られていること。三味線と踊りで座敷に出ていたが、息子も師匠も亡くなり、4年年季の芸者になったこと。東京から戻ってからも面倒を見てくれる旦那がいること。古里から上京するとき見送ってくれた男がいたこと。

    駒子のなじみ客の島村は東京からの旅行客である。トンネルを通ってやって来た温泉は異界であり、そこに生活の根はない。

    彼の生き方そのものにも現実感がない。親の財産で暮らし、踊りの研究をしているというものの、道楽の域を出ない。雑誌に原稿は書いているが、本人はそれを評価していない。虚ろな人生。

    だから必死に生きる駒子に惹かれる。駒子の一人語りを聞き、その表情、仕草をじっと見つめる。その人生のリアルを味わい尽くそうとするかのように。その駒子はまた、異界の住人でもあり、島村にとっては虚であるのだが。

    この二人の関係をどう見ればいいのだろうか。ヒントになるのは、雪の季節に再訪した島村と駒子の再会の場面である。

(駒子は)こちらへ歩いて来るでもない。体のどこかを崩して迎えるしなを作るでもない。じっと動かぬその立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取って、急いで行ったが、女の傍に立っても黙っていた。女も濃い白粉の顔で微笑もうとすると、反って泣き面になったので、なにも言わずに二人は部屋の方へ歩き出した。

    もう会えないと思っていた島村を見たときの駒子の驚きと喜び。芸者として客を迎えているのではない。そのことに島村は少し驚きながらも、黙って彼女を受け入れる。彼の心の中にも客と芸者という関係を超えた感情がある。ひとことも会話がないのに、思いが伝わってくる。川端の表現力に目の眩む思いだ。

    島村は東京が生活の本拠であり、家族もいる。駒子は島村と今以上の関係になることがないことは分かっている。彼女の人生自体が自分の思うようにはならないのだ。そしてそれは島村も同じ。違うのは島村にとって異界での逢瀬が、駒子にとっては現実であることだ。

    傍から見れば客と芸者の関係、二人の中ではそれを超えた関係。ただ、いつでも客と芸者の関係になれる。そのあいまいさは居心地がいい。

    それぞれにやるせなさを抱いた二人は、こうしてふわふわとした関係を、だらだらと続けていく。この先どうにもならないし、どうにかしたいとも思わない。だから何も始まらない。
    
    何かを始めれば必ず終わりがある。逆説的ではあるが、終わらないためには始めないことなのだ。

    とはいえ終わらないというのは小説としては困る。川端も相当困ったらしく、締めくくりを何度も書き換えたという。先日の報道によると、葉子が島村を殺そうとするという創作メモもあった。

    葉子は違う意味で現実感がない。冒頭の有名な列車のシーンは泣きたくなるほど美しく、まるで幻想のようである。葉子についての情報は断片的で、ほとんどが駒子との関係で語られている。

    ラストで火事が起き、葉子は燃える建物の2階から落ちる。駒子は葉子を胸に抱えて「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」と叫ぶ。物語を終わらせたのはリアルを生きる駒子だった。