娘の千夏は売春スナックで働いて家計を支え、ムショ帰りの弟拓児は、千夏を愛人とする男の元でハンパ仕事をしている。父親は脳梗塞で寝たきりだが、性欲だけは強く、母親と千夏が性的介護を強いられている。この一家が暮らすバラックを、パチンコ店でたまたま知り合った拓児に連れられて、失業中の達夫が訪れる。

    この映画の、どろ~んとした感じが伝わるだろうか。

    達夫もまた壊れている。砕石現場で働いていたが、事故で後輩を死なせたことがトラウマとなり、仕事をやめた。とにかく酒の飲み方がひどい。読書会で「拓児を殴ったりしている暴力性のある男」という指摘があって思い出したのだが、砕石現場での態度がエラソーというか、後輩に対して居丈高という感じだった。そういう素地があったところで死亡事故があり、ああなってしまったのだろう。「どうしようもなさ」という意味では、千夏の一家との距離は遠くない。

    もう一人「どうしようもない」のが千夏を愛人にしている中島だ。妻子がいて正業にはついているものの、背中には中途半端な彫り物があり、千夏に暴力をふるい、売春婦扱いする。しかし達夫に千夏を奪われそうになると、愛人にできるような女はいくらでもいるだろうに、「おまえしかいない」とすがりつく。

    千夏は、愛人として中島から金やモノを搾り取るわけでもない。中島との間に、金やモノではないつながりを見たかったのだろう。昼間の仕事についても続かず、地元を離れることもしない。人生をなかばあきらめている中で、中島や達夫に希望を見ているのだ。それも悲しい話だ。

    こんな人たちには近づきたくないというのが本音だが、こういう「生」があるのもまた現実なのだ。そしてその「どうしようもなさ」の中に男女、姉弟、親子の愛があり、それが心を揺さぶる。千夏を演じた池脇千鶴もいいが、出色は中島役の高橋和也だった。

    映画に比べると、原作の小説はかなりテイストが違う。

    一番の違いは、達夫の造型だ。原作では、町一番の造船所に11年勤務し、退職した。造船所でも設計課にいたというから、職工というよりは技術者だ。退職金には必要以上に手を付けず、失業保険で暮らしている。手堅い人生だ。現に小説の後半では再就職し、生活を立て直している(もちろん波乱はあるのだが)。

    達夫の退職の背景として、従業員の半数に退職を迫る造船所の経営危機が書かれている。現実にあった1985年の函館ドックの経営危機を下敷きにしている。しかし達夫の退職理由ははっきりしない。労組幹部の人間的ないやらしさが強調されるのだが、それが辞める理由とも思えないのだ。

    また、千夏一家が暮らす地域について「廃品回収業者や浮浪者の溜り場」と繰り返し強調する意味もよく分からない。小説にもあるように「市が根こそぎ取り壊し」て、住民は近くの高層アパートに引っ越しており、すでに過去の話である。地域蔑視は残っているのかもしれないが、そのことには触れていない。「廃品回収業者や浮浪者の溜り場」だった地域に残されたバラックという設定は、堅く生きてきた達夫が、千夏と出会う「冒険」のための道具立てでしかないように見えてしまうのだ。

    地方の主要産業の危機や地域の歴史性へのこだわりは、中上健次的な「土着性」を狙ったのかもしれないが、うまく消化しきれていないと思う。

    映画はその点をばっさり切り捨てた。時代に合わず、地域が限定されるということもあるだろうが、必要ないからだ。代わりに達夫と中島の2人を造型し直した。背景ではなく人物を選んだ。そのことで映画は小説を超えた。