【本の感想】

まず、この「往復書簡」というフォーマットがとても有効に働いているというのが一番大きな感想かもしれません。

漠然とした顔の見えない読み手ではなく、またおそらくは基本は賛同してくれるような愛読者ではない特定の相手に対して、公開を前提に自身や家族を含めた個の見解を公とする文章を書くという、しびれるような緊張感が文章から伝わってきました。本の中で、またセッションの中でも、上野さんから、鈴木さんの文体についてこれまでの文体とは違っていたという指摘がありましたが、文体はこの往復書簡という形式によって変わらざるをえなかったということなのではと思います。「文体は新しい現実をつくりだすための必須のスキル」と書かれている箇所がありましたが、ぐっと来る言葉です。物書きではないものにとっても、コミュニケーションとしての新しい「文体」を身に付けることは、新しい現実をつくることなのだとも思いました。
往復書簡をやられている間に裏で全くコミュニケーションを取らずに書簡でのコミュニケーションの形を取っていたというのも真剣勝負であったが伝わるものでした。よくある対談形式の書籍では、その場のリアクションにとどまってしまい、深く掘ることもできず浅くかみ合わない議論になることが多くなるように思いますが、そういった対談本とはまったく違う濃度が感じられました。
これは、もちろん上野千鶴子と鈴木涼美という、世代や経験の違う二者とその関係性があって成立するものだと思います。この本を生んだ編集の竹村さんに感謝です。一方で、この往復書簡というフォーマットは、とても人を選ぶけれども、もっと活用されてもよいフォーマットだなと思いました。

鈴木さんは、自らの執筆をする動機を「被害者という言葉の檻への抵抗と悪あがき」と書いてます。また、自分がいつも分析される側にいたとして、ブルセラ少女であったりキャバクラ嬢を外部から偉ぶって検討違いな分析をする人たちへの違和感と反抗心を今も持ち続けているとトークセッションでも語っていただきました。その、「私を分析するな」という刃は往復書簡の中で、上野さんにも向けられていた可能性もありました。この分野の大家でもあり、鋭い論客であり、人生の先輩でもある上野さんが優位に立って往復書簡は展開しているようにも見えるのですが、その武器を持ちながら、そして上野さんはその武器を使わそうと挑発しながら、その武器を抜かずに鈴木さんはかわし続けるといったような緊張したやりとりのようにも見えました。それは上野さんが「「語らなかったこと」がたくさんあるはず」と指摘したものであるように思うのです。そのことを新しい文体で鈴木さんは話し始めるようになるのではないかと思ったりもしました。(※個人の感想です)

書棚を見ると『スカートの下の劇場』『<私>探しゲーム』『発情装置ーエロスのシナリオ』『性愛論<対話篇>』『ミッドナイト・コール』といった上野さんの本が並んでいます。どれも自分が大学院生であった90年代初めに読んだものです。上野さんの本はそれ以来ですが、思えばこの30年の間にずいぶんと両性の平等については長足の進歩があったと思ってもいたのです。1997年の男女機会均等法改正の後、女性の社会参画(という言葉も正しいものではないかもしれないですが)も進み、今では、「フェミニズム」という言葉自体が少なくとも自分の実感としてはあまり聞かれることがなくなり、D&Iというタテマエ的には反対することも難しい誰もが賛同するスローガンに置き換わったように思えます。女性が上司であることは例外的なことではなくなり、そのことによって男性側の不満や軋轢を産むことが少なくもなり、また結婚や出産を契機に会社を辞めるということは周りでは稀になりました。明らかに不均衡な出産や育児についても、社会的・政治的に男性育休の取得を推奨する流れもあります。もちろん定量的な観点でもまだまだであることは多いとしても、多くの変化があったということは実感できます。一方で、もしかしたら#metoo運動や#kutoo運動に象徴されるように、セクシュアリティの構造の不均衡に関する課題は多くのところが手つかずのままに残っているのかなとこの本を改めて読んで感じました。それを改めて感じなくてはいけなかったところが、おそらくは男性の側にある鈍さであり、構造的な課題から来るものなのだとは思いました。

男性は女性を「尊敬の対象」、「庇護の対象」、「性の対象」の三つのカテゴリーに分けて認識しているとの鈴木さんの指摘にはドキリとするものがあります。この30年間において大きな変化があった、というのは「尊敬の対象」としての関係と構造であり、「性の対象」としての関係と構造は、解決の方向性についてさえも共通のコンセンサスが得られていないようにも思うのです。上野さんは、その課題において稀有なポジションにある鈴木さんにある種の期待をかけているようにも思えます。

本の中でロマンティック・ラブ・イデオロギー(結婚という制度のもとにおける性と愛と生殖の三位一体)の解体について触れられています。確かに自分がローティーンのときには、一種の道徳のように受け取っていたようにも思います。先の三つのカテゴライズにも大いに関係する現代の課題であると思われます。フーコーの『性の歴史 IV』を最近読んだのですが、このイデオロギーが初期キリスト教のころに確立され、西洋社会で引き継がれてきたみたいなことがねちねちと書かれていて眩暈がしました。「イデオロギー(主義)」と名付けられるだけあって選び取られるべき物の見方でもあるはずなのですが、多数が安心して選び取ることができるようなポスト・ロマンティック・ラブの新たなイデオロギーが見つかっていないというのが現状の課題なのではないかと。つきつめると、「わたしの性欲の純潔を愛で汚すな」という境地にもなるのかもしれませんが、それは決して広く共有されたものにはならないようにも感じます。ロマンティック・ラブ・イデオロギーが解体したと言われる割には芸能人や政治家の不倫があれほどまでに責めされるのが自分も不思議でなりませんが、女性の不倫だけが責められていたころから比べるとある意味では平等になったということかもしれませんが。いずれにせよ、引き受けられなくてはならない多くの課題が提示されていると思いました。

「なぜ男に絶望せずにいられるのですか ?」 ― 表紙にはそう書かれています。鈴木さんは男には絶望している、と。上野さんは「「人間の愚かさを学んだ」ではなく、「人間の限界を学んだ」だったら、どんなによかっただろう」や、「恋愛はしないよりはしたほうがずっとよい」や、「「男なんて」というのは「人間なんて」と言うのと同じくらい冒涜的」と書かれて、どこか翻意を促そうとしているようにも読めたのですが、それでもなお「男に絶望している」と鈴木さんが書くことの意味を十分に考えないといけないのだと首をつかまれて言われているようにも思えました。

【読書会】

さて、いざ読書会となると、やはりこのテーマだと自分の性別を意識せざるをえません。読書会の前では、自分の風俗体験、AV視聴体験などをカミングアウトしなくてはならなくなるかもしれないという一定の覚悟を持って臨んだのですが、幸か不幸かそうはならなかったので安堵と拍子抜けでした。そらそうか。

自分が参加した読書会のチームは、全八名のうち男が自分も含めて二名というのはちょうど良かったのかなと思います。一人だと心細くまた一人の意見が代表意見ととられる懸念も薄まるだろうからだし、また男性が多数派として議論するのもまた心地悪さもあるだろうからです。

議論の中で、まず母と娘の関係に注目が行ったという方が多いのが印象的でした。読み返すと母娘関係がとても大きなテーマになっているのが読み取れるのですが、あまり印象深くなかったのが驚きでした。自分にももう大学生の息子と娘がいますし、当たり前の話、母も父もいます。でも、濃密な緊張感や影響(もちろん性格を形作るという意味での影響は)を感じることなく過ごし、敬意も反骨も感謝も中の下くらいなのか、というところです。それが自分の息子や娘との関係性にも反映されているのかもしれません。自ら訳したフロムの『愛するということ』を上野さんと娘である鈴木さんに贈ったというのは眩しすぎるくらいに素敵という話をしていました。

また女性陣より、鈴木さんが「男性に絶望している」とまで言うことに対して、男性としてどう感じたのか聞かれたのですが、自分は責められているとは感じなかった、と答えました。もちろんそれはここで指摘されるような性産業を利用していないから免責されるというようなことではありません。そんなことはないからです(ブルセラは男性としても理解できないのですが)。個人的な責に関しては、鈴木さんとの関係性において当事者ではないので論理的には感じることはないということなのかもしれません。一方で、性産業の成立を支えていることも含めて、構造的な問題を男性代表として責められていると感じることは、ある意味では引き受けられる責任ではないものを引き受けようとしているようで無責任だと思ったのかもしれません。

他にも、慰安婦、痴漢冤罪、「魂に悪い」など、議論できればと思っていたことが時間が足りずに触れられなかったほど盛り上がった読書会になりました。

ちなみに、読んでいる途中にこれはどこかで読んだことがあるな、という既読感があったのですが、ブレイディ・みかこさんの『他人の靴を履く』で取り上げられていたことを教えてもらいました。最近読んだばかりなのにお恥ずかしい。

【トークショー】

なかなか緊張感が伝わるトークショーでした。この緊張感を出すことができるのが「格」というものなのだろうなと感じました。

上野さんがトリコさんに「それは問いの立て方が間違っている」として、問われるべきは私たちではなくて、読者の意見が知りたいと言われたのは、正しい表現かどうかわからないですが、少し胸が痛みました。確かに全員がこの本を読んでこの場にいるというのが前提であるので、読者としての意見を伝えるのは礼儀であるようにも感じたからです。そして、猫町の人であれば十分に意見を表明することができたはずだから。もちろん、上野さんと鈴木さんからご意見や裏話も含めてお話を聞くというのがお呼びした目的でもあったので、貴重な機会にひと言でも多くの言葉を聞きたいということはあったかと思います。そうであったとしても、もう少しインタラクティブにした方が喜ばれたのかもしれないなと思いました。なので、アフタートークのブログを書くのはある種の義務でもあるのではと思ったのです。特に、期待しない、と言われた男性としては。

トークの中で印象的だったものをひとつ挙げると、この本を契機に親と文通を始めたというコメントに対して、「理解されることが期待できなくても思いのたけをぶつけてください。思いのたけをぶつけたという記憶は残る」と言われたこと。自分は、その記憶は残すことができなかった。少なくとも父親に対してはもうできない。また、上野さんが「どうぞ聞き手に回って下さい」と言われたことも印象的でした。どういう人生を送ってきたのかを親から伝えてもらうのはとても大事なものだと。それは自分の感覚としてもあります。両親の馴れ初めさえ知らない。また、「どうぞ聞き手に回って下さい」と言ったのは、誰にも伝えていない伝えるべき人生がある上野さんが、聞き手となることができる「娘」を求めていることの裏返しなのかなとも思いました。そしてその一人の候補として鈴木さんを見出しているんだよとメッセージなのかな、とも。

なお、参加者からの質問で「子供を産まないと成熟しないのでしょうか」という質問は、「私は子供を産まなかったが、子供を産んだ人は子供の成長とともに人生を追体験する。私は鈴木さんとの対話を通じて追体験したかもしれない」という上野さんのご発言に対する子供を産まなかった女性からの質問だったのかなと思いました(間違っていたら申し訳ないですが)。文脈から質問だけ切り離して読むと、冷や汗が出るような内容だったので、気になっていました。

最後に改めて投稿するブログを読んで、まだ自分ゴト化ができているわけではないんだなと感じました。少し離れて論評しているような自分がいるような。これは、時間がかかるかもしれない。

いずれにせよ、素敵で刺激的な週末の夜を過ごすことができました。上野さん、鈴木さん、竹村さん、トリコさんと猫町サポーターに感謝です!そしてこの後も続くフェミニズム読書会にも期待です。