特に系統立ててフェミニズムを勉強したわけではないが、女性史、女性学と言われる分野には十代の頃から関心を持ち、少しは本も読んできた。ライフテーマの一つは「女と子ども、外国人」、自分ではフェミニストの端くれであると思っている。だからトリコ組がフェミニズム本を扱う、と知ったときは「まるで私のためにあるような読書会じゃないか!」と軽く舞い上がるぐらい今回の読書会を楽しみにしてきた。

    さて、その読書会の第1回目の課題本「限界から始まる」である。読み進めながら自分の内部に斬りこまれるような錯覚を起こしていた。ルッキズム、母と娘の関係、自らの内にもあるウイークネス・フォビアやロマンチックラブ・イデオロギー、承認欲求、シスターフッド、能力と自立etc…考えていたこと、考えさせられたこと、とにかくテーマが目白押しである。しかもひとつひとつのテーマが重く、自分自身で「こうだ!」と言い切れるほど考えを纏めきれているわけではない。ゆえに、以下の文章は、今、私がぼんやりと考えていること、感じていることの断片のようなものである。

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    第一子長女だった私は、母に「泣いて帰ってくるな」「男の子に負けるな」と言われて育ってきた。母は私の幼い頃は専業主婦、私が長じてからは(もっと言えば、7歳下の妹にかかる手が離れてからは)パートタイマーに出るというよくある普通の主婦であったが、そのことに満足できないものを感じていたのだろう。顔も性格も自分に似ている長女(私)に自分の果たせなかった何かを無意識のうちに託していたのではないかと思う。おそらく、その「何か」とは経済的にも社会的にも自立した女性になること。その思いの表れが「泣くな」「男の子に負けるな」だったのではないか、と思う。
    だからかもしれない。「泣くこと」は決して褒められたことではない、と思っていた。小説や映画に感動して泣くのはいい。悲しみに涙するのは当然のことだ。だが、負けて悔しいから、厳しいことを言われたから、といって泣くのは「自分の弱さ」であり、それはしてはならないことだと思っていた。
    誰かの痛みに寄り添おうとするのは人間として当然のこと。だが、自分自身は強くなければならない。弱音を吐いてはいけない。周囲から認められたければ、もっともっと頑張らないとならない。そう思いはするが、凡人である私は愚痴も言う、弱音も吐く。頑張るよりも怠けたい。そんな自分が好きになれなかった。あくまでも強い自分でいたかった。
    この本を読んだ今は、それもまたウィークネス・フォビアではないか、と思う。十代の頃に読んだ漫画に、自らの剣の腕が周囲よりも劣っていることを自覚している登場人物が葛藤の末「今はまだ強くはない。が、努力する。だからもう少し待っていてくれ」とさらりと言う場面があったのをふと思い出した。弱い自分、傷ついた自分をまるごと認めることは実は「強さ」なのだ。その強さに至るまで、私もまた葛藤を繰り返すのだろう。

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    私は「母の娘」であり「娘の母」でもある。近所に住む母とも社会人になって独立した娘とも関係は極めて良好。おそらく「仲のいい母娘」と誰が見ても思うであろうし、実際にそう言われている。
    だが、鈴木さんの「母の理解の範疇外に行きたい」という思いも私には分かる気がする。母の理解の範疇外でも母は私を愛してくれるのだろうか、という思いは私にもあった。「母のようにはなりたくない」という思いもあったし、面と向かって母に「お母さんみたいな生き方はしたくない」と言ったことさえある。(先述したように自分のできなかったことを私に託した母は「それでいい」という反応だったが)    私が鈴木さんのように夜職へ向かわなかったのは「夜職はハイリスク・ローリターンな職業ではないか」という冷静な計算のほかに、「やはり母に見捨てられるのが怖い」という臆病さ、そして「夜職につける武器(エロス資本)を持っていない」ということがある。もし、私がここまで臆病ではなく、自分のルックスに自信がある人間だったら、私もまた夜職に向かったかもしれない。
    一方で「娘の母」として考えると、娘が大学進学を機に家を出たのは、母である私の影響下から抜け出ようという無意識の行動だったのかもしれない、と思う。(少々遠くはあるが自宅から通えない大学ではなかった)    いくら理解をあるフリをしていても、子どもにとって親とは「ウザい」ものでもある。ましてや同性の母と娘はお互いがお互いの批判者でもある。ほどのよい距離感が必要なのかもしれない。
    ところで、「理解の範疇外でも愛してくれるのか」は子どもに対しても思うことがある。子どもは親を無条件に愛するものなのだろうか?    

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    女が生きやすい社会は男も生きやすい社会ではないか、とずっと思っている。非正規雇用の割合が女性に多いこと、女性に求められがちな「浄化槽」的役割等、今の社会は女性にとって生きやすい社会とはまだまだ言えない。では男性にとって生きやすい社会なのか、と言えば、必ずしもそうではない気がする。そのマジョリティ性ゆえに気づき辛いが、世間が期待する男性像の型枠から外れることは、女性が型枠から外れるよりも困難を伴うのではないだろうか。(外れないことが一番ラクな生き方だから敢えて外れようとしないだろう、という皮肉な見方もできるが)
    人間は結局はひとりだけど、誰かと一緒に居るのも楽しいし、ひとりも楽しい。時には葛藤し、泣いたり笑ったりしながらも誰もがのびやかに生きられる社会というのが私の理想である。上野さんの言葉を借りれば、時代の限界(エッジ)からその理想を考え続けたいし、新しい時代の景色を楽しみにしたいとも思う。