カズオ・イシグロ作品は未経験でしたが、SF的な要素が興味を惹いたこともあり、この機に読んでみました。ちなみに文学サロン月曜会の読書会参加は『復活の日』に続いて通算2回目です。

全体の感想としては、これはどういうことなんだろうと考察したりテクノロジーと社会のかかわりと考える材料として楽しめた半面、ストーリー的にはもうひとつ納得の行かない印象が残りました。


以下、雑多な感想+考察です。


冒頭から重要キーワード「AF」が何の説明もなく登場して (←当然意図的とは思いますが) やや面食らったので、この辺の解説記事などで補完しつつ読みました。

(参考1) 人間の心と生 根源的に問う カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳『クララとお日さま』

https://www.sankei.com/premium/news/210305/prm2103050001-n1.html


AF=人工親友≒AIロボットということで、ヒトとロボットの違いとかロボットが人間になりかわれるかが中心的なテーマと受け取りましたが、作中のAFはかなり人間に近い存在として描かれているように思いました。

(極論すると「AF」を「奴隷」に置き換えてもストーリーは成り立つのでは?)


もう1つの重要キーワード「向上処置」(言語では "lifted" らしい) についても作中では突っ込んだ説明がありませんでしたが、一種のサイボーグ的な技術でしょうかね。上に挙げた解説記事では「遺伝子編集」との説明。

この辺のSF的ギミックは『ホモ・デウス』で語られたテクノロジーの将来像と共通性が高いように思いましたが、直接影響を受けたというよりは、AI技術・バイオ技術の将来像についてこの辺が共通認識になっているんだろうと受け取りました。

(参考2) 人類がとことん「幸せ」を追求し続けた先に待ち受ける、意外な未来とは?『サピエンス全史』の訳者 柴田裕之に聴く 

https://forbesjapan.com/articles/detail/30104/1/1/1


ストーリー中盤で明かされる、クララをジョジーの代わりにする計画は割と衝撃的な展開でした。

仮にジョジーが亡くなったとして成り代わることができたのかは結局謎のままですが、作中のクララ描写および前述の将来テクノロジーの観点では、「できても不思議ではない」と思っています。人間の挙動は身体的な要素に由来する部分が大きいはずなので、ジョジーの言動を真似るだけでは不十分とは思いますが。


クララの描写で特徴的な「ボックス」については、視覚的なイメージがつかみづらいですが、概ね画像認識技術による物体認識のイメージと解釈しました (人の表情の理解や、クララ自身の感情の反映に関してもう少し考察の余地があるかと思いますが)。

(参考3) ディープ・ラーニングにおける物体検出

https://blogs.sas.com/content/sasjapan/2019/03/12/understanding-object-detection-in-deep-learning/


もう1つクララで特徴的な、お日さまに対する一神教的な信仰については、太陽エネルギー駆動に由来するものという解釈で良いかと思いますが、「特別な栄養」の解釈が大変難しいですね。

かなり後の方まで、「特別な栄養」はクララの単なる思い込みであってジョジーを助けるための祈り、「クーティングス・マシン」破壊などの行動は無駄に終わると確信していましたが、ジョジーの寝室に光が射し込んだ後で病気から回復するという展開には驚愕。大枠では「AFから見た現実に近い世界」を描いた作品と捉えていましたが、ここだけ作品世界のリアリティから逸脱しているように見えました。


あとジョジーの成長後、クララがあたかも不要になった家電のようにあっさり捨てられていますが、ここにどのような必然性があるのか、どんなメッセージが込められているのかも気になりました。

AFはあくまで子供のためのものであって大人になると卒業するものという位置づけかとは思いますが、大人になってもアシスタント的に活躍する余地はあるのではないか、卒業したとしても捨てる必要はないのでは (維持費が高くつくとか?)、など。