読書会が終わった次の日から、頭の中からすぅーっと感想が消えていってしまう、私にとっては絶妙にとらえどころのない本でした。いえ読書会そのものは色んな感想が聞けて楽しかったのですけど、この物足りなさは何?

読書会のなかで、「ふたつの世界の間で居場所を得られないでいる人の孤独」という話題が出ました。須賀さん自身、イタリアと日本、良家の子女という出身とイタリアでの貧しさ、クリスチャン文化とノンクリスチャン文化、そういうものの狭間ですごく葛藤したはず。
だけど、その苦しみがあまり文面に出てこないんです。もしくは、あえて書かないのか。

「貧しく生まれたものは貧しいまま、老年、そしてやがては死を迎える。まるで目に見えない神様にそう申し渡されたみたいに、彼らは運命に逆らわず、… おなじ底辺の暮しに吸いこまれていった。」(p.135)

そう、それはそう。
貧しさのなかの諦め。社会への憎しみや、妬み、恥ずかしさやコンプレックス、衣食住をはじめとしてもっと具体的な生活苦があって、そこに直面して困惑して葛藤していたはずなんです。
よく「落ちる」って言うでしょう。「堕ちる」でもいい。豊かなところから貧しいとろに落ちるって、すごくみじめに感じるものだと思うんですよ。そういう場所で、たぶん上昇志向のある人も周りにあんまりいない。
須賀さんは、それをただ眺めるほど素朴な人であったはずがない。
むしろ、そこを改革しようというすごく芯の強い人だったはずなんです、おそらく。
なのに、どうしてそれを書かないんだろう?

たぶん私を含めて多くの人は、分かりやすい物語を求めます。
こんなに辛い経験をして、でも乗り越えたから今がある、とか。
いま淋しくてたまらなくて、あたたかい言葉をかけてもらって元気が出ました、とか。
もしくは、私はこの孤独と共に生きるのだ!という強い決意、とか。
あるいは、この社会を変えてやる、という表明とか。

須賀さんは(もしくは彼女の教養の高さが)そういう分かりやすい表現を嫌ったんじゃないかと思うんです。
文庫本の解説で編集者のかたが書いているんですけど、須賀さんと話していると、「肝心なところで話をふわっとぼかして」しまうことがあった、と言う(p.257)。
この本当の自分を見せないところ、陳腐な表現で片付けないところ、かといって他者や対象と完全に一体化することもないところ、そしてそこに留まり続ける文体に、ちょっと底知れない怖さみたいなものを感じます。

須賀さんがご存命だったら聞いてみたいなと思うことがあります。
須賀さん、あなたは誰のために文章を書いたのでしょう?
自分のため?それとも、亡くなった親しい人たちのため?それとも、どんな読者に向けて、何を届けようとして?

私は、私の未来がほしい。いま求職しながら過去を振り返りながら未来を掴もうと格闘しているから。
須賀さんの他の本は読んでいないけれど、この本に「書かれていないことのもどかしさ」から、私が今ほしいものが逆照射されたような、そんな読書体験でした。

2021.6.8