豊田市美術館で「ボイス・パレルモ展」が開催されていて、気になりつつ現代美術ってイマイチわからず迷い中でした。一方で、愛知トリエンナーレを初めて観に行って結構面白くも感じたし、バンクシー展も面白かったし。ちょうど、ヨーゼフ・ボイスのドキュメンタリーが課題になったので、まずはそちらを観てみることにしました。


ヨーゼフ・ボイスは挑発する

https://www.uplink.co.jp/beuys/


なかなか途中で目を離せない面白さで、印象に残ったところ、言葉は、

・芸術概念の拡張
・思考=彫刻 「自由」
・引用されたピカソの言葉「芸術は住居の飾りではなく 敵に対する武器だ」
・何が望みかと尋ねられ、「人々の意識を拡張し政治状況を語りあいたい」「今 民主主義はない」「だから私は挑発する」「怒らせるのはいいことだ、少なくとも対話が始まる」
・芸術の境界を破る
・社会彫刻
・どのように形は生まれるか、形はどこからくるのか
・素材によって彫刻の表現を解体
・思考は彫刻であり、この世界に作用する


ボイスが、芸術について新しいものを生み出そうとしていたのが伝わります。以前に、ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」を読んだ時にも思ったのですが、美しいものを美しく観たままに表現する芸術から、そうではない伝えるものを持つ芸術を生み出そうとしていた。たとえば、政治や資本主義や全体主義、戦争や環境破壊、対立などへの批判といった、様々なメッセージを。もちろん美術を観るときは作品タイトル、説明プレートは読まない、説明は作品ではないという考え方もあると思うのですが、少なくともボイスに関しては、背景を知ることで、より楽しめると思います。


動画中で紹介されていたボイスの作品で興味深かった、印象に残ったもの。

自然保護運動の一環でもある「7,000本の樫の木」(1982)の植樹する7000本と樫の木と石の対比は、時の流れの中での変化と不動を表すという目的が興味深い。

会のテーブルでも、実際に観てみたいという声が上がっていました。

「死んだウサギに絵を説明するには」(1965)もインパクトのある作品(パフォーマンス)だった。「思考や言語の問題」がテーマの作品だそうですが、「死んだウサギ」は、理解できない観衆を表しているようにも、政府のやっていることを知らない、知ろうとしない民衆にも思える。

こちらについては、なぜこのテーマを伝えるのに死んだウサギでないといけないのか、死んだウサギをパフォーマンスに用いることへの反対なども感想にでました。

一番印象に残り、回でも感想や意見が出た「私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」(1974)は、ボイスがニューヨークの画廊の中で、1周間コヨーテと暮らし、実際のアメリカ人とは接触しないというパフォーマンスで、コヨーテは米国先住民を象徴しているのだそう。これは観る側の背景で感じる意識が変わる例かと思う。

会では、なぜここまでコヨーテが人に慣れているのだろう?「毛布」や「杖」、「新聞」は何を表しているのか?コヨーテが先住民を表しているとしたら、ボイスは作品の中で何を表しているのだろうか?などの疑問が出されました。

実際にパフォーマンスが行われ公開されたアメリカでは、重く受け止められ、反発も批判も大きかっただろう。一方、今それを観る私は、面白さ、興味深さは感じるが、思わず怒りを感じてしまったり、感情を捕らわれてしまうほどではない。こう考えていて、あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」を連想した。
あいちトリエンナーレは、結局いくつか公開されたものだけを鑑賞できたにとどまったけれど、あまりこれまで現代芸術を観る機会の無かった私には非常い面白く興味を持つきっかけになった。ただ、トリエンナーレで私が惹かれた作品は、ある意味メッセジーが伝わりやすい、わかりやすいものだったようにも思う。


動画を観て感じたテーマが本当に実物からも感じられるのか、作品を観て一層興味を惹かれ、できたら、やっぱり実際に観てみたい。展示会の間に観に行っておきたい気持ちが増しました。言葉も作品も、まだ一度観終わった今は、十分理解も咀嚼もできていないのですが、これまで知らなかったヨーゼフ・ボイスに、非常に興味がわいた、観たかいのある面白いドキュメンタリーでした。デュシャンとウォーホルは、最近少しは観たり本を読んだりする機会もあったので、今度はボイスも観てみたく思っています。