猫町の課題本にSFが!やったー、参加せねば!と、新年最初の読書会に意気込んで再読し参加しました。


課題本:小松左京 復活の日 角川


1964年に発表されたSF小説です。昔々に読んで手元にある文庫本には年季が入っています。1980年には映画化もされています。昨年のコロナ感染症拡大下で、再び読まれているということでした。

原作も以前読んだことがあり、映画も観たことがあったのですが、今回の読書会にあたって再読し、子どもと映画も観ました。映画は、やっぱりストレートに訴えかけてくるところが良いです。人の表情から感情が伝わりやすくて感情移入しやすい。滅びゆく人類のパニックの様子や南極の厳しい自然の様子も映像でストレートに良く伝わるし。ただ2時間半の尺に収めるためにメインストーリー以外の部分は削られているので、原作を読んでいると隙間を脳内補完で埋めて一層理解しやすい。また原作の方が、刻々だんだんと感染が広がっている経過の描写など詳細に積み上げるように書かれることで、心にキリキリと不安が迫ってくる。小松左京の伝えたかったことも原作の方が、やはり一層伝わってくるように思います。


昨年、コロナ感染症が拡大し、目に見えないウィルスに対する恐れと焦燥感を感じた今読むと、一層リアリティがあります。楽観的に現実を見ようとする人の間で、一気に広がる感染。公演などが中止され、通勤電車から人が消え、野戦病院のような状態になる病院。現実では、それでもまだ小説ほどの状況にはなっていませんが、もしや本当にもと思わされるリアリティを今こそ感じ、ゾッとします。
小説内に登場する土屋医師をはじめとする医者、看護師ら病気や死と闘う方達の、不眠不休で、自分たちが倒れそうになりながら、患者と向き合う姿は、今現在のコロナ下で、防護服に身を包みながら治療に当たり続ける姿と泣けるほどそっくりです。
加えて、小説内で起きた人類を破滅一歩手前に追いやった原因が、自然災害によるものではなく、人類の愚かな行動によるということ。当時の東西冷戦を下敷きにした疑心暗鬼、より強い兵器をという愚かな望みによって開発される敵も味方も一様に殺しつくす生物兵器は、人が作り出したものであるということが一層厳しい。


ここから、ネタバレも含む感想です。


読書会では、
・ウィルスの性質、地震予知など、科学的な説明部分は、どこまでリアルに正しいのか気になった

・MM-88が核ミサイルによって無害化されるところや、ワシントンから南アメリカ大陸南端まで歩き通すところが、ちょっと無理があるように思った

という、当然の突っ込みを持った方が多かったです。確かに!確かにその通りなのです。一緒に映画を観た子どもにも色々突っ込みを受けました。多分、考証のために取材や調査は、小松左京さん、すごくしておられると思うのですが、そうはいっても最終的には強引だったりなんちゃって虚構科学なのは仕方ないです。SFの科学考証は、あくまで作品にリアリティを持たせるためのもので、楽しむためのものであると思っていただければ。ハードSFの巨匠、J.P.ホーガンも、グレッグ・イーガンも、すごい勢いで考証を書いていて読んで面白いですが、まあ、本当ではないです。そのうえで、それっぽく、ありと思って読むと、小松左京の訴えなかったメッセージのためには、人類がウィルスのために滅亡する結末でなく、何とかして南極大陸から元の世界に戻れるようになる仕掛けてくれたなあと私は思います。


この物語の中には、何人かの科学者が登場します。

グレゴール・カールスキィ教授は、科学者としての倫理観は最低限持っているとはいえるかもしれません。しかし結果的にスパイに騙され、不慮の事故による結果とはいえ、ウィルスが世界に漏れ、人類滅亡へのパンデミックを発生させてしまいます。そもそも、この偶然の事故が無かったとしても、作り出された兵器が使われない、「抑止力」としてしか使われない保証などどこにもない。作り出した時点で、もうそれこそが人類の滅亡に加担していると言える。もちろん、研究のためだったとか、使い方次第だとも言えるのでしょうけれど。原子力発電が、使い方によっては将来、たとえば星間移動やコロニーで必要な科学技術かもしれないのと同様に。

文明史の教授で、ラジオ講座の最後の講義で滅びゆく人類の愚かさ、科学者としての自分の過去の愚かさを嘆くスミルノフ教授の講義のメッセージは、本小説の中で最も心に残っています。「知識人が、哲学者が、科学者と協力し、権力、あるいは資本の僕となることを防ぎ、本来の主たる理性にのみ仕えることを可能にし、大衆にうったえ、権力に対して説得と暴露でもってのぞんでいたら」「科学的認識のさししめす事実、真実を繰り返し提示し、意味するところを繰り返しうったえ、制度機構の矛盾と諸悪の、弾劾者、裁判官に、調停者の役割を果たしていたら」、人類はもっと別の理性的人類に飛躍し超越できていたのではないかと悔やみ、自分自身が「学者として、全人類に対し責任を取り、動じない信念と勇気に欠けていた」「学者として、知識人として、根源的に怯懦(きょうだ)であったこと」を恥ながら、伝え亡くなる。ほぼ聴く人がいないであろう世界に向かって責任を果たさなかった自責の念から発せられたメッセージは、作中では届く相手はいなかったかもしれませんが、作品を読んだ読者には、自らを振り返る警告となるメッセージとして届くように思います。

もう一人心に残っているのが、つきとめた病原体の性質を死後もアマチュア無線でエンドレスに発信し続けるA・リンスキイ博士。それを受け止め、利用する人がいるかどうかわからない中で、役立つ可能性にかけて情報を発信し続けることを最後に選んだ姿に心からの敬意を感じます。作中でリンスキイ博士がどんな人が描写されることはなく、ただコールサインと名前(ファーストネームも明らかにならない)が記憶されるだけなのですが、結果として南極基地に残った人類を救うことになりました。

一方、R308の危険性に最初に気づいていたマイヤー博士もまた、マッドサイエンティストで人類を破滅させる兵器を開発しようとしていたわけではありません。「もし、この系列が、予見し得たおそるべき性質を開花し、それが軍に注目され、正式生物学兵器に採用されたらどうなるか?それ以前に、完全に、外部に漏れずにすむか?」と恐れ、危険性を予見し、「おれのせいじゃない」と自己弁護し、軍上層部への報告を制限していた。加えて、おそらくマイヤー自身が気づいたように、この生物兵器はマイヤーだけが見つけたものではなく、巨大な組織の中で、並行的に研究開発されていて、マイヤーが抵抗したとしても止めることはおそらくかなわなかったでしょう。
しかし、マイヤーの自問と言う形で、フェルミやアインシュタインがマンハッタン計画(原爆製造計画)をすすめた時、「結果をはっきり知って計画を推進したのだろうか?ヒロシマ、ナガサキの「被害」について完全に正確なデテイルにわたって想像できたのだろうか?」「科学は常に両刃の剣であろう。しかし、学者たちは、何の懊悩も感じていないのだろうか?」との問いは、当時のSFに見られた「科学万能主義に対する警告」というよくあるパターンだったのかもしれませんが、実際のところ、現在であっても十分未だに残る問うべき警告ではないかと思います。

結末で、スミルノフ教授が死の間際の最後の講義で悔やんだ人類が為さなかった後悔に対応するように、ラ・トゥール博士が手記に記します。「闘うべき相手は、同胞ではないという ことが時代の普遍的認識となれ ば、それは一切 の人間対人間の骨肉相はむ 争いをおわらせ、かわっ て 物質〟と対決すべき連帯がうまれる のではないか? 人間が人間を苦しめ、傷つけ、殺し、"物質〟に 還元しようとするすべてのこころみに、終止符をうつことができたのではないか?─ ─ すくなくとも、 世界〟があるうちに、この認識が普遍化されていたら!」「"知性〟というものが、確率的にしかはたらかず、人間同士無限回衝突 したすえにようやく、 集団の中に理性 らしき ものの姿が あらわれる といった、 きわめて効率の悪いやり方をふたたびくりかえすこと に なるかも知れ ない。 ─ ─ その迂回 路を少しでも短くする責任 は ─ ─ 一番最初の責任はわれわれ に ある 」。この知見を、リアルでの私たち人類は、取り返しがつかなくなる失敗の末での結果でなく、先に自覚し、超越した人類になることはできるのだろうか?


スミルノフ教授とラ・トゥール博士の言葉と、南極人の行動に託した小松左京のメッセージは、人の理性と知恵を希望として信じているように思います。しかし、作品の発表から50年過ぎた今でも、スミルノフ教授がすべきであったと悔やんだように「科学的認識のさししめす事実、真実を」繰り返し訴え、説得し、理性でもって、誤りを、無知からくる誤解を解き、憎悪を無くす方向に進んでいるといえるだろうか? 読書会でも、この点、懐疑的な意見でした。特にトランプ大統領の姿は、偏見と分断の広がりに、まさしく作中のシルヴァーランド前アメリカ大統領のようだとも。


生き延びた人の生への強い力、同時に人を生かそうとする強い意志、人間らしい姿に、小松左京が人と言うものに抱いていた希望も本書から感じることができました。愚かな行動から人類の滅亡を招いたのも人間ですが、同時に、理性を持ち、知恵と意志の力で復活の日を招いたのも人間でした。今読んでも色あせない、素晴らしいSFだと思います。これが50年前に発表された(原作)なんて、小松左京、あらためて全くすごい。