中国の文革時代の「下放」で、都会の若者が地方の農村、山村に送られた。「知識青年が農村に行って貧農・下層農民の再教育を受けることは必要である」(毛沢東)という考えからだ。農村の現実から学べということなのかもしれないが、この小説を読むと「流罪」にしか見えない。慣れない労働、生活は過酷だっただろうし(なにしろ時計すらないのだ)、村人からの理不尽な扱いに屈辱も感じただろう。

    小説は下放され、村に着いた羅と「僕」の2人の若者が荷物検査を受けるところから始まる。そこで村人たちがバイオリンを知らないことが明らかになる。親が有名歯科医や医師である都会の知識人層出身の2人が親しんできた西洋文化、近代的な文化はここにはないのだ。10代後半の多感な彼らにとってこれほど辛いことはない。偶然接することを得た映画と小説だけが救いとなる。

    初めて手に入れたバルザックの小説をむさぼり読むシーンがいい。「闖入者ともいうべきその小さな本はいきなり、欲望の目覚め、感情の高まりや衝動、愛、つまり世の中がそれまで僕に対して黙してきたことを残らず語りかけてきたのだ」。たとえ身は山奥の村にあっても、一冊の書物は世界を拡げてくれる。

    もう一人の主要な登場人物は、仕立屋の娘「小裁縫」だ。彼女と恋仲になった羅は彼女に見てきた映画を語り、バルザックの小説を読み聞かせる。はじめは歓心を買うためだったが、そのうちに、彼女に西洋文化を身につけさせる「再教育」に変わる。正月に垢抜けた服装に身を包んだ美しい小裁縫を見た羅は「何カ月も本を読んで聞かせたのも、無駄じゃなかったわけだ」と喜ぶ。

    バーナード・ショーの戯曲を元にしたミュージカル「マイ・フェア・レディ」を思い出す。ロンドンの下町に住む娘を上流階級のお嬢様に仕立てあげる話だ。共通するのは人間を「再教育=改造」できるという思い上がりであり、「再教育」された側がそれを裏切る痛快さ(あるときは悲惨さ)だ。

    この小説でも小裁縫は恋人の羅を捨て、山村を去る。羅が伝える彼女の言葉がいい。「バルザックのおかげで分かったそうだ。女性の美しさは、値のつけようのない宝だったということが」。小裁縫はバルザックを自分の力で消化し、自分の価値を見つけ、自分の足で立って、広い世界で生きていくことにしたのだ。羅はもういらない。これが本当の意味での「再教育」の成果である。

    無意味としか思えない「再教育」のために下放された知識人層出身の羅と「僕」が、小裁縫を「再教育」してやろうとする矛盾。それは民衆の知識人層への不信を描き出しているようにも見える。自分たちを簡単に「再教育」出来ると考えていると。誰であれ、他人に強制されたり、操られる生は望まない。羅と「僕」よ、「そういうとこだぞ」。

    フランスでは40万部を超すベストセラーになったそうだ。知的エリート層が「支配」する、かの国だからだろうか。