昨日は、トリコ組オンラインオープニングイベント    ゲスト上野千鶴子/鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』に参加しました。サポーターの皆様、おつかれさまでした。おかげさまでとても楽しかったです。


    私にとってこの本は、兼ねてからもやもやしていたことが言語化されていて、すごくよかったです。そのポイントをメモとしてまとめておきます。(備忘録)




「エロス資本」

    正直に言うと、わたしは「エロス資本」という概念に批判的です。「エロス資本 erotic capital」は社会学者のキャサリン・ハキムの概念だそうですが、「文化資本」や「社会関係資本」にならってつくられたこの概念は、社会学的にはまちがいだとすら思います。(中略)「エロス資本」は努力によって獲得することもできず(努力によって獲得できるというひともいますが、それには限界があります)、蓄積することもできないばかりか年齢とともに目減りしていくだけのものだからです。しかもその価値は、一方的に評価されるだけで、評価基準はもっぱら評価者の手の内にあります。つまり資本の所有者がその資本のコントロールができないという状況のもとにある財を、「資本」と呼ぶことは端的にまちがっています。
(中略)
    資本というからには、若さと美しさはほんとうに経済価値を生むのでしょうか?たしかに「外見の価値」が社会学探求の対象になってからは、美人は経済的に有利という調査結果も出てくるようになりました。
(中略)
対価を伴う「性の市場」というものが、すでに成り立っているからです。だとしたら、そこに参入する女性は「エロス資本」の「資本家」なのでしょうか。性の市場にはあいかわらず巨大な経済資本が動いていて、そこでは女性はたんなる「エロス商品」にすぎません。(中略)
「強制的に与えられ、その後剝ぎ取られる」「意思と関係なく持っている」ものを、「資本」などと呼んではならないのです。


   
印象深くて、引用多すぎましたね。
以前に、asukaさんがつぶやきに、どの年齢層の異性に魅力を感じるかというグラフを載せてくださっていました。(ある本からの抜粋)。それがとても面白く、asukaさんのコメントにも唸りました。(先ほど辿って見つけたのですが、つぶやきにはリンクが貼れず残念。)


    「エロス資本」についてはこの本によるものらしいです。
『エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き』 – 2012/3/3
キャサリン・ハキム (著), 田口未和 (翻訳)    共同通信社


   
こちらは未読ですが、エロティックキャピタル(エロス資本)を持つことで男転がし?が上手くなり、従属的ではなく主体的に動けるようになり、エンパワメントでさえあり得ると主張しているようです。
    しかし、「男性の眼差し」は、「見る男性」と「見られる女性」という非対称な関係図式に基づくものであるというのは、私はかねがね感じてきていました。女性性を強調しなくてよい場面でも、男性(評価者)から自分にくっついている「エロス資本」について値踏みのようなことをされてきたなと感じています。ボーイッシュな一人親(母)の元で育てられて、身なりに構わないでいることをよしとされてきたのに、年頃(←この言葉も何だろ)になってから、急に「女の子らしく」という要請を周りからされて、戸惑ったことを思い出しました。エロス資本は「強制的に与えられ、その後剝ぎ取られる」「意思と関係なく持っている」という言葉には、どこか安心感を覚えます。


    女性の美醜のことでいうと、面白かったのが以下の中村うさぎさんの発言です。

「中村うさぎはなぜ整形したのか」
中村 :「私が整形をして何がいちばん大きな発見だったか。 それは、 美醜みたいなもの と、自分の価値を切り離すことができたということですね。たとえば、男の人って、 会っ た 瞬間に こんにちは」「 どうも」「 ああ ハンサムです ね」 なんて言われること、めったに ないわけでしょ。 郷ひろみぐらいになると言われるのかもしれないけど、それは 美醜が商売の一部だからね。なのに女の人には、とりあえず 褒めとけ、という具合で 容姿 を 褒める人が非常 に多い。「 こんにちは」「 おきれいですね」 みたいな。そんなこと 言う必要 ないのに、 社交辞令の 一部 として「 女は 顔を褒めとけ」 というのにも、イラッときて たわけですよ。 ありとあらゆる美醜というものと自分の 存在とが、いつも 隣り合わせ にあることにイライラ していた。でも 整形したじゃないですか。 まず、 ひとつ には、ブス だって 言われても傷つかないわけですよ。 だってそれ は 高梨(美容整形外科医)の責任だから。
佐藤 :面白い( 笑)。責任を人に 転嫁 することが できるわけね。
中村 : そう、それまで
私の容姿は自分の責任だと思っていたの

『聖書を読む』佐藤優、中村うさぎ共著  (文春文庫)より引用。
    聖書読書会のためにこの本は読んでいたのですが、こんなことが書いてあるとは。今回、この部分を思い出しました。男性が女性の美醜の評価者であるが、整形で医師によって顔を作り替えられたことで、その評価の的となることから逃れられたということでしょうか。「整形してもあの程度か」とネットで書かれても「それは高梨に言えよ」という話になるというのが、面白かったです。

女性の美醜の序列については、山崎ナオコーラさんの言っていることも気になります。

「男性がつくった美醜の序列において下位にいる女性が上位の女性をバッシングしたり、うらやましがったりする……そうすると男性が“一段高い”ところに行くことができ、「ただ見てる側」の人になれる、という構図を作っているんだと思うんです。」

いろいろ止まらなくなって来たので、この辺で。。


同じテーブルになった皆さま、トリコ組オンラインサポーターの皆さま、ありがとうございました!!