初の「二村組」、ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』に参加して、しあわせな時間を過ごしました。
    この映画は確実にわたしの性愛観・人生観にぶっ刺さった作品で、だけど何がどのようにぶっ刺さったのか言語化しきれないままずっと生きてきて。今回、初めて『ピアノ・レッスン』について誰かと語りあえました。いろんな人のいろんな感想、解釈を聞くことができました。
    
    以下、気づきのうちの一部を記します。
    ピアノはその重さ、運ぶ手間ひま・調律の大変さなども含めて、エイダそのものだった。そのピアノをべインズは大切に扱ってくれた。一方、スチュアートは大切にしてくれなかった。
    その時点で、エイダはすでにべインズを選んでいた。

    スチュアートはエイダとべインズの密通を知ったときには激昂せず、エイダがピアノの白鍵にべインズへの愛の言葉を書いて送ったときに、初めて怒りを爆発させたのはなぜ?

    スチュアートはそのときまで、口のきけない(きかない)エイダが言葉を持つ人間だと思っていなかったのかもしれない。べインズもまた文盲(二村さんが仰っていたように、文盲ではなく敢えて言葉を捨てたように思えるのですが)なので、スチュアート的には、自分より劣る彼らが動物みたいにまぐわっているだけ……とそれまでは自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
    だけどエイダが、自分の言葉で愛を語ることのできる“人間”なのだと気づいてしまったから、激昂するしかなかった……。

    終盤でスチュアートが、エイダの言葉を頭のなかで聞き取ることができたのはなぜ?

    あのときエイダは初めて彼と向きあい(実際、初めてスチュアートの目をちゃんと見てます)、彼もまた初めて、心から彼女を理解したいと思ったから。
    ということは、スチュアートはけっして人を愛せない人ではない。ただ、どうやって人を愛したらいいのか、その方法をこれまで知らなかった(たぶん恋愛経験がなかった)。
    でも最後の最後でエイダを愛した。だから彼女の望みを叶えようと決めた。すなわち彼女を解放しよう、と。

暫定的結論(今後また変わるかもしれないので):
べインズもスチュアートも、それぞれの愛し方でエイダを愛したのだと思う。
べインズの場合は、彼女そのものであるピアノを大切にすることで。スチュアートの場合は、彼女を手放すことで。
ちなみにこの、「愛しているから相手を自由にする」というシチュエーション、わたしの大好物でして……。もしかしたら大好物補正でスチュアートを解釈している気もなきにしもあらず、なのですが。

    わたしのなかでのスチュアート観が、読書会の数時間でがんがんずいずい変わっていくのを発見して、ほんとうにびっくりしました。スチュアートはこれからきっと大丈夫!    この経験を糧にして、次の結婚では(きっとまた見合いすると思うので)相手をちゃんと愛せるようになるはず。つうか、わたし付き合ってもいいよ、スチュアート。
    読書会では大人気だったべインズ(もちろん好きさ)よりも好きになってきた……。

    同テーブルのみなさん。参加者のみなさん。ほんとにほんとに、ありがとうございました。
@まりさん、すてきな演奏でした~!!
『ピアノ・レッスン』について語り合えて、しあわせでした(死亡フラグっぽい文言…)。