2月20日、著者である二村さん、柴田さんのご両名も参加された『欲望会議』読書会が開催されました。読書会後の質疑応答も含めて盛り上がりましたね。課題本になったこの本自体、話題がかなり多岐にわたるのですが、読書会での議論は本の個別具体的な内容から離れて、LGBTやペドフィリアを巡る一般的な議論になることが多かったような気がします。本の内容にインスパイアされて、本から離れて議論が盛り上がったともいえると思います。

■ 性的欲望はいかにして獲得可能なのか

さて、序文で千葉雅也さんは、この三者の「欲望会議」で語られる「欲望」とは、明確に「性的欲望」のことであると書いています。では、その「性的欲望」とは何であるのか、必ずしも自明のものであるとは思えなかったのです。多くのテーマについて話ができた本でしたが、読書会の中でも問いかけたひとつの疑問が浮かびました。

「なぜ、自分は同性に対しては欲望を抱けないのか(いや抱けるのか?)」

性的嗜好は自分の意志で選べないとされるからこそ、そのことで苦しむことがあり、それがLGBTQが社会的課題とされる根底にもあるのだとも思います(それだけではないですが)。
一方で遠い過去の時代に目を向けると、『欲望会議』の本でも触れられていた信長と森蘭丸のように戦国武将が目を掛けた若者に対して性的行為を行っています。フーコーの『性の歴史』によると、古代ギリシアでは少年愛は社会的にも認められる行為であり、そこにおいて性行為は同性/異性という枠組みよりもむしろ上位者/下位者の枠組みで捉えられていたと指摘されています。そういえば、昨年の読書会の課題本にもなったレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』でも、南米のナムビクワラ族では酋長が女性を占有することから生じる男女の不均衡を解決するために男性同士の性行為が一般に行われているという記載もありました。つまりは、性的嗜好はその人が育つ社会のコードによって規定されるものなのかもしれないと。その前提として実は、人は誰でも多様な性的嗜好を持つことができる生物であり、バイセクシャルになれる能力を持っているのではないのか。そうであれば、同性に対する性的欲望を今からでもONにできるのではないか。もしできないとすればそれはなぜなのだろうというシンプルな疑問が湧いてくるのです。
(同性に対する性的嗜好を持っていることを悩んでいる人に対しては上記はもしかしたら失礼に当たるのかもしれないとも思うのですが、そういった意図なきこと含めてご容赦をいただければと思っています。ウェットな感情に関連するところとは離れた論理的な疑問であるという意味も含めて”シンプルな疑問”と表現しています)

■ 発情装置

ヒントになるような本があったような気がして、読書会の後に手元の本棚を探してみました。そこで見つけた上野千鶴子さんの『発情装置』(1998年)から長めの引用をご容赦いただければと思います。性的欲望における「異性愛のコード」について、とてもよく理解できる論述だと思うのです。

「異性愛のコードは、「自分と異なる性に属する他者を愛せ」と命じる。と同時に、自分と同性の他者を性的に愛することを抑圧する。性的欲望(とりあえずそんなものがあるとして、だが)は異性に対してだけ水路づけられる。
マネーとタッカーは『性の署名』の中で、性自認が個人のアイデンティティの核であることを説いた。同様に、他者とかかわる時、私たちはまっさきに、相手の性別を認知する。性別を認知するまでは、ふるまい方や話し方、つまり関係の水準が決まらない。
異性愛者は、相手の性別が異性だと認知されたときに、性的欲望の掛け金が外れるよう、プログラムされている。愛するか愛さないかは、相手の性別を確認してから決まる、というわけだ。もちろん異性ならだれでも愛するわけではないが、相手が異性だというだけで、発情装置の水位は上がる。
それを不自由と、強制と、読んでもいい。異性愛のコードのために、人類の半分を性愛の対象から失うのは大きな損失だ、といってもいい。
だが同時に、この強制された文化的な発情装置は、何千年もの歴史的な洗練を経てきて、屈強な在庫と蓄積を持っている。欲望の水位を上げ、それをチャネリングするには、文化のコードにのっかるだけでよい、という容易さがある。それだけではない。この条件づけから逃れることは、かんたんではない。」『発情装置』(1998) 上野千鶴子 (p.233)


ここで論点になるのは「異性愛者は、...プログラムされている」のところではないかと思います。性的嗜好の獲得は、何らかの体験を通した後天的なものなのか、それとも遺伝的な影響による先天的なものなのか。上野さんはここで、異性愛を後天的に社会的にコード化されているものとみなしているように思えます。おそらくもう少し正確に言うために順番を変えて、「プログラムされて、異性愛者になった」と言うべきなのかもしれません。さらに進めて言うと、同じく同性愛もプログラミングされるということです。そしてそのとき、いつ何によってどのようにプログラムされるのかということが論点になるのではないかと思うのです。

千葉雅也さんは、ポリコレに関して「マジョリティからマイノリティに向けられる偏見や抑圧に抵抗し、マイノリティをエンパワーするもの」と定義しています。ポリコレが、その意図するところとして正しく社会的に受容されるということは、同性愛に対する抑圧のコードを排除することで、より多くの人にとって多様な性的欲望の水位を上げやすくなるということなのかもしれません。読書会の中でも友人や知人に同性愛がいる人も多かったのですが、数十年前と比べるとその比率は体感としても上がっているように思います。それが、同性愛を性的嗜好として持っているということを公にしやすくなったからなのか、社会的抑制がなくなったこと、引いては欲望を模倣するもととなる同性愛についての表象が増えたからなのかどちらなのか考えてみる価値はあるのではないかと思うのです。性的欲望について、社会学の対象として考えるとどうなるのだろうなと。

読書会の中で同性に性的欲望を抱くことができるのかと問いかけたとき、BL漫画を読めばいいと二村さんは言いました。でも、実際にBL漫画を読んでもその欲望を感じ取ることができないのです。BL漫画を読みたいという欲望をそもそも感じるようになっていないところが、もはやそこに発情の水位を上げるようにプログラムされていないのかなと思うのです。リプログラミングが可能なのかが論点なのですが、リプログラミング可能かと問いながら、リプログラミングをしたいという欲望も上がらないのです。不思議ですね。もしかしたら、小さいころにBL漫画がそばにあったらその水路は開かれていたのかなとも考えたりしました。

■ 最後に

読書会でも、単に同性愛者とカテゴリーするのではなく、性的嗜好と性自認と具体的性行為の嗜好とを本来はきちんと分けて考えることが必要ではという指摘がありました。とかく粗雑にもなりがちなポリコレの観点でも、その言葉で何を指しているのかを常に意識する丁寧さ、言葉に対する鋭敏さ、が必要なのかなと思いました。
フェミニズムのトリコ組の読書会の影響も受けてこういうことを考えることにもなったのだろうし、猫町読書会って面白いなと思いました。引き続きよろしくお願いします。