ともすれば私は鈴木涼美さんのようなシニシズムに陥りがちなので、上野千鶴子さんの回答は指針のひとつになるんじゃないかと感じました。
以下は本書からの抜粋です。


<鈴木涼美>
56ページ
恋愛はフィクションの中にある概念として、性は目の前で射精して帰っていくおじさんの実在としてそれぞれ別の文脈で学んだと思っていました。

61ページ
私は、「男は愚かだから仕方ない」と顔を背けていた男性に向き合い、 互いを尊重するようなセックスと恋愛を求めることができるのか、自分では答えが出せずにいます。 そもそも、男性と性愛を通じて精神的にも繋がるということはやはり必要なのでしょうか。「何も生み出さない」シニシズムから抜け出す必要を感じますが、 男性への絶望から抜け出すことはとても難しい作業のような気がします。

<上野千鶴子>
74ページ
「恋愛」は決して自我の境界線を死守するようなゲームではありません。自分と違う他者の手応えをしたたかに味わうことを通じて、自分と他者とを同時に知っていく過程です。他者が絶対的に隔絶した存在であること、他者とは決して所有もコントロールもできない存在であることを確認しあう行為です。 恋愛は人を溶け合わせる代わりに、「 孤独」へと導きます。その「孤独」は何とすがすがしいことでしょう。

75ページ
性にも暴力から交歓までのスペクトラムがあるように、愛にも支配から自己犠牲までのスペクトラムがあります。性も愛も理想化する必要はまったくありません。ですが、限られた人生で、自分の時間とエネルギーという限られた資源を豊かに使うなら、クオリティの高いセックスとクオリティの高い恋愛を、しないよりはしたほうがましです。どちらも人間関係の中では、めんどくさくてやっかいなものですから。そして、ひとはそれに投資したぶんの報酬しか得ることが出来ません。
たかがセックス、この程度の恋愛・・・・と思う人には、それだけの報酬しか手に入りません。ひとには求めたものしか手に入らないのです。

77ページ
愛されるよりは愛する方が、欲望されるよりは欲望する方が、ずっとあなたを豊かにしますし、あなた自身について多くを学ばせてくれます。性も愛もなくても人は生きていけますが、ないよりはあるほうが人生を豊かにする経験は確実にあるものです。

98ページ
わたしは何人かの男と同居した経験がありますが、そのつどこう思ったものでした。「もしこいつが交通事故か何かで半身麻酔になったら、わたしはこいつを捨てるだろうか?」と。あるときふっと、「たぶんそうなっても、わたしはこいつを捨てないだろうなあ」と思う瞬間が来ます。そうなったときに、「ああ、こいつと『家族になったんだ』と感じたものです。

234ページ
あなたは何度も「上野さんはなぜ男に絶望せずにいられるのか?」と訊ねてきましたね。ひとを信じることができると思えるのは、信じるに足ると思えるひとたちと出会うからです。そしてそういうひととの関係は、わたしの中のもっとも無垢なもの、もっともよきものを引き出してくれます。人の善し悪しは関係によります。悪意は悪意を引き出しますし、善良さは善良さで報われます。権力は忖度と阿諛を生むでしょうし、無力は傲慢と横柄を呼び込むかもしれません。わたしはイヤな奴には相手以上にイヤな奴かもしれませんし、狡猾さも卑劣さも持ち合わせていますが、自分の中のよきものを育てたいと思えば、ソントクのある関係からは離れていたほうがよいのです。

<鈴木涼美>
250ページ
高校時代に好きだった川端や志賀直哉を読んで、あるいは三島やドストエフスキーを読んで、ブルセラの客が可愛く思えるくらい、男って自分勝手で病んでいて愚かでで救いようがないと思っていました。その愚かさを愛することが、世界と対峙する唯一の方法だとすら思っていました。

<上野千鶴子>
290ページ
生きるとはこの自分のエゴイズムと孤独に向き合うことにほかなりません。そしてエゴとエゴとが対等に葛藤し合うような関係をつくることができれば、初めて男女の間にまともな恋愛が成立するでしょう。