本書では、「きくことの力」について語られています。
    カウンセリングについてよく言われることに、カウンセリングを受ける人は、自分の中に答えがあって、優れたカウンセラーは、相手がその答えにたどり着くのを見守っているのだというような話があります。
    昔、何かの本(手元にないので確認できませんが、内田樹と春日武彦の対談「健全な肉体に狂気は宿る」かな?)で読んだのですが、「見守る」というのは見守る側にとってもすごく体力のいることだ、という話がありました。見守るというのは、相手にあれこれ言ったり相手を動かそうとしたりすることじゃない、しかしただ見ているだけでもない、これは本当に危険だと思ったらすぐに動けるような姿勢で、しかし本当に危険な状態になるまでは動かずに相手を見ていることだ、というような話です。本書でも、河合さんは、相手のようすを見て、止めなきゃいけないときもあるし、そのまま待ったほうがいいこともある、というようなことを言っていましたが、同じようなことなのかなと思います。

    本書の中で興味深かったのは、「ひとは他人に何かをしてもらうことでじぶんを支えることもできるが、他人に何かをしてあげることでもじぶんを支えることができる」という話です。
    これも昔読んだ何かの本で、寝たきりのホームレスの老人がいて、数人のホームレスがその老人の世話をしながら一緒に暮らしていたという話がありました。その老人は客観的には何もできなくて、ほかのホームレスたちが世話をしている。そして、その老人が亡くなった後、その家族のような集団はばらばらになってしまった、という話です。
    認知症の人についても、その人の好きなことや役割を取り上げて、何もしなくていい、むしろ何もしないでくれというふうに閉じ込めてしまうのは認知症を進行させると言われていますし、人は何がしかの仕事や役割を求める生き物であり、自分が何かの役に立っている、誰かのためになっているという気持ちのはりがないと生きていけない生き物なのだろうと思います。
    人から悩み相談を受けたりしたとき、私は正直、ちょっと嬉しかったりするのですが、それはたぶん、信頼してもらえたとか、頼りにされたとか、そういう気持ちになるからだと思います。とはいえそこで、相手の悩みを解決してあげなきゃ!と思って、解決策をいろいろ言うのは、相手もたぶんあまり求めていることじゃないと思いますし、聞き手としてあまりいい聞き方じゃないなと思います。
    じゃあ、どんな聞き方がいいんだろうと考えると、特に親しい友人であればあるほど距離感を見失いがちで、共感のあまり一緒に悩んで抱えきれなくなると爆発してしまいますし、しかし仲のいい友人に相談しても冷静な態度だとちょっと寂しいし・・・相手も単に吐き出してすっきりしたいときもあれば、すごく悩んでいて人の意見を聞きたいということもあるだろうし・・・と考え出すと、正解はこれだと簡単には言えないですね。

    読書会で、印象に残った内容として、他者を理解することというのは相手と同じ考えになることではなく、相手の言っていることをそのままに理解しようとすることだ、という部分を挙げた方がいました。それについて話をしながら、自分は、他者を理解することをどれだけしているだろうかと思いました。
    多様化といえば聞こえはいいけれど、それは無関心ではないか、というような話をどこかで読みましたが、私はまさにそのタイプで、「あなたの言うことを否定しないから私の言うことも否定しないで」というスタンスです。人の思想信条に眉をひそめることもありますが、議論する熱量も気合も根性もないので、一部の友人を除いて、滅多にそういう話をしませんし、違う考えの人がいても、相手が話すならばその話をきくことはききますが、受け入れがたいものは聞き流す感じです。わかりやすい例で言えば、支持する政党が違うとか、結婚に対する価値観が違うとか、そういったことです。
    常に違う考えの持ち主と議論することがいいとは思いませんが、それでも、人生では、考え方の違う相手と何らかの結論を出さなければならない局面や、どうしても守らなければいけないもののために闘わなければならない場面もあるはずで、もう少し、わからないなりに相手を理解しようとする訓練をしたほうがいいのかなと思いました。

    ほかにも、気になっているキーワードやテーマはあるのですが、うまく文章になりませんでした(この文章も、私の中ではつながっているけれど文章としてはつながっていない部分もあるような)。でも、そういったことについて考えるきっかけをもらったこと自体が読書会の楽しみであり刺激です。
    同じテーブルだった皆さま、どうもありがとうございました。