今回の作品を読んで、私が思い浮かべた映画があります。黒澤明監督の『生きる』です。市役所に勤める平凡な主人公が、重い病で余命が短い事を悟り、小さな公園を作ることを生きがいにしていく映画でした。

今回の主人公ヘムレンさんがたどる話はこんな感じです。彼は親族の経営する遊園地で入場券に鋏を入れたり、遊園地の機械整備のような仕事をしています。経営や事業を企画するわけではなく、仕事にも精魂傾けているわけではないです。ただ趣味に没頭できる年金暮らしに行くことを目指して、遊園地の仕事を単なる手段として無為に過ごしています。遊園地は地域の子供達に愛されています。しかし、水害によって遊園地が流されてしまいます。ヘムレンさんの関心は別のところにあり、子供好きでもない、遊園地なんかちっとも興味がない、できれば我が道を行きたいと思っているヘムレンさんでした。しかし、自分が考えもしなかった遊園地作りに、子供達の思いを受けて情熱を傾け、遊園地を再建するストーリーです。

遊園地で遊んでいた子供たちは、水害により遊園地が流された時に大きな喪失感を抱えます。ヘムレンさんは、遊園地に関してはなんの未練もありません。そんな中、遊園地再建に向けて、子供達がヘムレンさんに目を付けます。ヘムレンさんは、遊園地を経営しているヘムル一族にいながら浮いた存在です。ヘムル一族はいわゆる実業家一族で、金儲けがうまく、人の価値観はどうでもよく、自分の才覚で得た地位で好きなように暮らせればいいと思う人達です。そんな一族達がヘムレンさんを見ると、入場券切りのような地味な仕事を黙々と行うようなヘムレンさんを小馬鹿にしてます。また、ヘムレンさんがドールハウス(鉄道模型のジオラマや洋酒の瓶の中の模型の船のような工作物のイメージ)作りに没頭することを生涯の夢ととして語ると、ヘルム族からは嘲笑され、彼は深く傷つきます。彼の居場所はないのです。

しかし、子供達からみたらヘムレンさんは違う存在です。入場券を空打ちして貧しい子供達を遊園地に招き入れて遊ばしてくれたり、遊園地の環境を守ってくれる頼もしい『おじさん』だったようです。

遊園地が流されて壊れた時に、ヘムレンさんは、相続した叔母の遺産である庭園の整備に没頭して引きこもります。遊園地を再建してほしい子供たちは、ヘムレンさんの気を引くための手紙を送り、遊園地の材料を山のように集めてヘムレンさんに届けます。最初は、そんな子供たちの動きに見向きもせず、相続した土地を庭として再建するために手入れをしていたヘムレンさんでした。庭仕事に励むヘムレンさんでしたが、整備中に自身が作った小屋が壊れたのを落胆します。小屋の壊れたのをきっかけに、子供達が大量に準備した資材(流された遊園地の廃品を回収したものなど)を使って庭に遊園地を作り始めると、アイディアがわき仕事に没頭します。さらに子供達が遊園地作りに協力を始めると一層仕事の励みになり、遊園地が再建できました。遊園地は再び子供達の大切な場所になりました。

ヘムレンさんは自分の才覚で遊園地を再建したわけではなく、すべては成り行きです。しかし、遊園地を再建した事は、子供達の期待に応えて、自分で工夫をして、他人に喜ばれる仕事を成し遂げられましたが、たまたまの結果にしか思えません。

作品の中で、『・・・心の奥にある一番ひみつの夢を、少しでも早く話すのは、とても危険な事なんです。・・・』とトーベ・ヤンソンが本のページを破って、みずから顔を出して話しているような一節があります。私は、自分が傷つかないように、むやみに他人に話すな、間が悪いときに話すな、相談する相手を選べ、構想を温めて肝心なところで示せと言っているように最初は思いました。ヘムレンさんがドールハウスを作る夢を嘲笑されていたり、ドールハウスも作成できず、相続した庭作りが思う様に行かない事などがあてはまりました。

しかし、読書会後に振り返ると、自分を貫き通す事も必要だと伝えたいのかもしれないと考えました。この物語の最後に、音の出るものが嫌いなヘムレンさんは手回しオルガンをほっぽり投げましたが、ヘムレンさんのおじさんは手回しオルガンを持ち帰りました。おじさん曰く、好きな事に没頭するのが良い事だと言っています。『静かなのが好きなヘムレンさん』は、ヘムレンさんが単に静かさを好むのではなく、生きがい、あるいは自分の居場所を見つけていく物語のように思います。空気を読まず好きな事に没頭する彼の生き方は、自分のスタンスをそれぞれ持っているヘルム族のスタイルを、ヘムレンさんも体現してるように見えます。単なる自画自賛ではなく、自分の追求した事が、他人が喜んでくれる事、および他人に必要とされる事と重なった時に、心を満たしてくれる喜びにつながると伝えているように感じます。