ついに山田風太郎の読書会ですと!
私は山田風太郎の明治ものシリーズのファンで、猫町ラウンジ入会後、猫町radioにお招きいただいたときもそう言ってた覚えがあるのですが、山田風太郎といえばどちらかというと「忍法帖シリーズ」が有名、ということはなんとなく知っていました。が、未読でした。その忍法帖を手に取る機会。二村さんが課題にされたのは『忍びの卍』。

https://nekomachi-club.com/events/997767ea79ec


山田風太郎、たいへん面白いし、ものすごい知識量だし、一筋縄ではいかない深さがあるですが。その一方、作風は「エログロナンセンス」でもあって、まあ変態なわけです(それがため若者におおっぴらに勧めにくい)。変態描写もあるだろうな、と思いつつ頁をめくっていくと、、、、

変態描写ほぼ100%やないか!(しかも変態度合いも10割増)という、最初から振り落としにかかってくる課題本でした!二村さんすらも「『忍びの卍』がいちばんひどいです。」と言われていました。安心しました。(←)

読書会は、視点が多岐に渡って、とても楽しかったです。

【男は滑稽】

グループでも、その後の懇親会でも、「メインの3人の忍者(全員変態忍法)は誰が最も邪悪か」という話に。話が進んでいくにつれ、いちばんキモいしひどい奴だが虫籠右陣さんは憎めないのではないか?…とお話される方が多く、虫籠さん株が上がってくる展開に。
虫籠さんは他の2人の忍者が死んだあと、自分を追ってくる隠密の刀馬に語りかける。男は忍者にしろ隠密にしろ滑稽なものだと。使命だの、プライドだのと、自由に素直に生きられないのは男性の悲しさかもしれない。最近でこそ、そうした「マッチョな男性」像を見直し、男性も弱みを認めるべき、という考え方が注目されるようになってきました。それはフェミニズムと表裏一体(どちらかというと後進的)に言われるようになってきたように思います。
変態的であって、女性に対して酷い描写も多い本作ですが、山田風太郎氏は、女性をリスペクトするような話も多く、完全にフェミニズム小説みたいな本もあったりします。男性の弱さ愚かさを書いている山田風太郎、やはりリベラル先駆者と言えるなと改めて思ったりしました。

虫籠さんの話に戻れば、ここでなぜ彼は敵視して追ってくる刀馬にわざわざ話しかけたのか。
その直前、虫籠は使命であった大納言の書き付けを入手しようと迫るが、それを阻止しようとした刀馬の婚約者のお京に、自分が身代わりに虫籠のものになってもよい、と言われる。女性を舐めて官能的にするという変態なだけの忍法を使う虫籠は、これまでせっかく官能的にした女性には手を出せない(気の毒だなという意見もあった)。本心かどうかは分からないが、彼女と引き換えならば使命を果たせなくても良いという虫籠。結局、大納言はそれを止め、自分を滅ぼすことになる書き付けを渡す。
虫籠さんは本心では、やはりお京さんが好きだったのかもしれない。そう思うとせつない。
「女がおまえを捨てた」と刀馬にいう虫籠は、自分も失恋したのだということではなかったのか。本当に大切にしたいものをむざむざと捨てさせられてしまったもの同士だから、異質な他者が少しだけ分かりあおうとする名シーンになったのかなと思う。
…せつないな、虫籠さん。私もちょっと好きになってきました。

【女になりたい男の願望】

忍法帖で出てくる特殊能力はその人物の業(ごう)が現れているそうです。それは昨今の能力バトル漫画にも受け継がれている。性交した女性に乗り移る忍法を使う、筏織右衛門という超ストイックで強い剣士がいますが、彼は実は女性になりたい願望があるのではという指摘が。
その流れで、懇親会では男性の欲望についての話になったりして、私にとっては意外な発見でした。
ひと昔前までは、男性は性的な快感を表現するようなコンテンツはなく、快感を感じる描写は女性の方に偏っていた。男性が快感や感情を表に出すのは男らしくないという社会的な抑圧があったという。そうなの!?と意外でしたが、うなずく男性陣も多し。
私はてっきり、女性にばかり性的快感を感じさせたり性的にオープンになる描写があるのは、それを見る男性にとって都合がよいからでは?と思ってしまっていたところがありました。
女性に乗り移ったときに敵忍者の百々さんと交わったあと、筏は「女性はあんなに快感を感じるものなのか」というのですが、先ほどの「男は滑稽だ」にもつながるように、本当はストイックばかりではなく弱みも見せたい、受動的になる時もありたい、という男性の欲望を代わりに叶えてくれる筏という先進的なキャラクターだったのかも…と発見でした。

【女性たち】

ひどい描写の女性像ですが、物語中の女性たちは幸せなのかどうか。そんな話も出ました。
トップオブ変態にして暴力的な3人目の忍者、百々さんの忍法ですが、死の間際、彼の周囲の女性は官能を味わい、自分を犠牲に捧げて死んでいく。官能でもあり、忍者としての使命もはたす、ある意味幸せではないか。虫籠と筏にぬれ車にされた女性もまた官能のうちに死ぬことはできる。(というか、死を伴う使命とか大義とかがすでに官能的という比喩なのかも)
ではヒロインのお京は、どう違うのか。お京さんは、悲劇しかない道に立たされるが、最後は自分の意思で選択をする。悲劇的だが、自分を曲げなかった駿河大納言とお京は、なぜだか幸せそうな感じもする。それに比べると、やはり結局は道具にされていった女性たちは、被害者という描きかたであるように思う。数々の被害者の果てに、お京さんの選択があるのは、凄惨で不条理なこの作品の最後に味わうまっとうな人間性でもある。やはり山田風太郎氏は戦争によって「大義」などの元に死んだ人たちのことを思っていたのだろうか。

で、やはり女性が性的にも主体的になるのが良いとはいいながらそれが男性視点ではなく女性視点でなくては気持ち悪いな、というのも同時に感じつつ。

おまけ

主人公カップル、たいてい苦すぎラストの山田風太郎作品ですが、本作と少し似た読後感な明治ものは『ラスプーチンが来た』だと思います(私見)。こちらも明治ものの中では変態度合い強めで、前半のアホな不条理さに引きながら読んでいただくと、清純ヒロインのラストが「忍びの卍」みがあってなかなか印象的です。


…とかさんざん明治明治いってるわりにまだ全部読めてないですし、二村さんにも「さぶさんは明治ものをすごい読んでる」みたいに言われてしまったし、もう今年中には未読の明治もの読破してちゃんとお勧めできるようになろうと思います宣言。(毎年思っていますが…)