フェミニズム読書会に参加。今回は2回目でした。
前回の『往復書簡 限界から始まる』(上野千鶴子 / 鈴木涼美  著)のときは本の理解に精一杯で、ブログにうまく書けずじまいでした。
今回、『生きるためのフェミニズム』を読むことで、フェミニズムで問題として上がっていることが前回と重なる部分もあり、自分の中でも少しはっきりしてきたなと思います。共通するテーマで連続して読書をする効果、すごいです。

私が割り当てられたテーブルでは、男女3&3、年齢層も幅のあるグループとなりました。
以下は、グループでお話した内容をもとに、私が後で咀嚼してまとめた(というかまとまってない)内容です。

●本書のもどかしさと必然性

テーブル内では、様々なテーマが「入り口」として出てくるような本で読みやすい一方、深入りしないもどかしさや、著者の個人的なホームレスの方とのやりとりでの立ち位置のあいまいさに少々モヤモヤするという意見もありました。それは、学術書でも個人の体験記でもなく、それらの間を行き来する稀有なジャンルの本である面白さとも言えます。モヤモヤもするけど、それで良い(またはそれしかない)、という著作だというお話もありました。

著者がそこまでホームレスの方々に惹きつけられてしまうのはなぜなのか。居心地が良いわけではなく、自分は入りきれない世界であるにもかかわらず。
私は、前回の『往復書簡』の著者の一人である鈴木涼美さんも共通したことを書いていらした気がするな、と思ったところでした。鈴木さんは経済的な必要があったわけではなく、性に潔癖さのあるお母さんとの関係によって夜の世界に足を踏み入れたゆえに、当事者になりきれない自分の難しさを書かれていました。
本書『生きフェミ』の堅田さんも、自身の「特権的な」立場にどうしても疑問を抱いてしまう方なのだろうと思います。自分が「属している」という世界に居続けることの矛盾を、見ないことにはできない方々なのではないか。それは誰もが少しずつ感じている違和感ではあるものの、進んで「箱」を開ける人は少ないのかもしれません。そして、正解は無いゆえに、箱を開けてしまえば誰しも同じ苦悩にぶつからなくてはならない問題です。そうかといって、「わかり切っているくせに余計なことをして」と非難することなど誰もできないように思います。

最短距離ではなく、どうしても紆余曲折を味わなくてはならなかった末にたどりついた「誰にとっても差別のない空間なんてあり得ないのかもしれない。けれども…」という著者の着地点は、重みがあります。それを読む「箱を開けていない」読者にもこの曲折を共有してくださった。そして、着地であると同時にスタート地点でもある本なのだと思いました。

●特権の自覚について

最終章付近での「セーファースペース」(「暴力や差別を最小化し得る空間を構築していくための終わりのないプロセス」)についての言及部分にあった「自らの持つ特権に自覚的であること」は、テーブルの中でも話題になりました。その一方、「さらに“上”がいるのに、自分たちが特権を持っているかのように思いすぎることも、また問題」というお話も出ました。確かに、自省が行き過ぎて自責になってしまうと、資本主義社会において世界の富の大部分をほんの数%の人に集中してしまう構造を免責してしまうことにもなりかねないのは確かです。また、逆に差別を肯定する言説に足もとをすくわれてしまう危険もあると思います。
ここでも前回の『往復書簡』で、鈴木さんにかけた上野千鶴子さんの言葉「自分で選んだわけではない出自を恥じる必要はない」ということが思い出されます。現在「経済的に不自由ではない家庭で生きてき(てしまっ)た、豊かさを享受している」という人も、それはその人個人の責任というわけではないのです。
ホームレスの方を前にしたところで、自省はすれども、だから自分の持てるものを捨てて肩代わりをすることはない、というお話もあり、私もはっとしました。

本書のサブタイトルにある「パンとバラ」(生活の糧と尊厳のたとえ)は、しばしば引き換えのように語られてしまうけど、本来引き換えにされるものではなく、どちらも求めてしかるべきものだ、という主旨で書かれています。この場合も同じことが言えそうです。
自分の享受している豊かさを手放すことなく守り、しかし構造の中で排除されている方がいるなら、そうした他者の暮らしの保証や尊厳も求めてよい。引き換えにされるものではないので。「パンもバラも」求めるべきもの。「自分も、他者も」豊かになるべきもの。

フェミニズムに対しても、男としてどうすればよいだろう、と悩む男性もよくお見かけします。が、その説でいくと、男性に生まれて男性社会で生きている個々人が全ての責めを負う必要はないと私は思います。男社会で頑張ってきた男性が、その努力まで否定することはないと思います。ただし女性に不利益を与えたり個性を奪っていることに対しては、改善の側に立つ。「女性も男性も、自分に必要なぶんのパンとバラを」で良いのではないか…と、思ったところです。