シネマテーブルクラシック、スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』(1968)に参加しました。以下は読書会自体の感想ではありません。なんとなく書いた雑感です。

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『2001年宇宙の旅』は何回も観た映画なのですが、これまではたびたび寝落ちしていました。なぜ寝てしまうかといえば、好きな人、ごめんなさい。長いからです。あるいは今となっては少しテンポがゆっくりに感じるからです。といってもそれは知っている話を私が何回も観るからです。先がわかっているから長く感じてしまって寝てしまうのです。

今回は、不謹慎ですが寝落ちせずに観ることができました。「読書会で話をする」ことが前提であったことに加え、以前参加した「観察力を磨く 名画読解」のおかげで「画面自体を観察する」気持ちで観たからかもしれません。おかげで「あれ、こんなシーンあったっけ?」とか「うーん、すごい緊張感!」とか、とても新鮮に観ることができました。

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そうやって改めて真剣に見た結果、最後のスターチャイルドのシーンで、私は思わず笑ってしまいました。もう一度、本当にごめんなさい。

映画の冒頭のシーンの音楽は、リヒャルトシュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」です。リヒャルトシュトラウスの曲としては、最後まで聴いていてもあまり面白くないのにこの映画のおかげで超有名です。

そして、ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」では、人類の超人に至る三態の変化について、駱駝・獅子・幼子の比喩で語られています。「汝なすべし」の中に囚われた状態の駱駝から、「われは欲す」の獅子に変身し、最後は「然り。すべてはあるがままに」という幼子の心を獲得するという変化です。

「えっ、もしかしてスターチャイルドって超人? 幼子?」と思ったら、最後のシーンはあまりにも朴訥で、「え、ここまでの映像的な緊張感。その緊張感に対する俺の感動はどうしてくれるの?」という気持ちになって笑ってしまったのです。本当に、本当にすみません。

その笑いは、ちょうどベートーベンの交響曲の第九が、第1楽章・第2楽章・第3楽章と美しく緊張感に充ちている音楽なのに対して、第4楽章はどこか威勢がよく元気で、「え、それでいいの?」「本当にいいの?」という気持ちになってしまうのと似ています。あくまでも私見です。本当にごめんなさい。

いずれにせよ、今回、久しぶりに映画をコマ送りで観ました。一度観てからもう一度、要所要所で止めながら観ました。『2001年宇宙の旅』は止め絵でみるとすごいです。それは本当に楽しかったのです。

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黒い板状の物体、モノリスは映画の中で4回登場します。うち3回が《人類》に変化をもたらしているように見えます。残りの1回は月のモノリスですが、《人類》に変化をもたらしているようには特に見えません。

すなわち、月の埋められていたモノリスは
 1) 発見者が、衛星に到達する技術を保有していること
 2) 発見者が、地中にあるモノリスを磁気によって発見できる技術を保有していること
 3) 発見者が、地中にあるモノリスを掘り出すことができる技術を衛星に持ち込める技術を保有していること
 4) 発見者が、木星への通信を同定する技術を保有し、木星の衛星にも何かが存在することを認識できること
を前提として発動する通信装置ということになります。

ですから、月のモノリスが人類に何らかの影響を与えているかどうかはわかりません。それ以外の3つのモノリスは人類もしくは生命体の認識に干渉するところが共通点になっています。また、3つ目の木星の衛星付近にあるモノリスはゲートになっています。これが物理的な移動を伴うものなのか、認識の中でのものなのかはわかりません。若い頃に「このシーン、わっからねぇ~」と思った筆頭シーンです。

そんなことを思いながら改めて見てみると、猿に近い人類が初めてモノリスに出会ったときに彼/彼女が感じたものは、この3つ目のモノリスの効果に近かったのかもしれません。大量の情報による認識の変化。それは単なる認識の変化のみならず、情報の過剰な流し込みによって脳の結線といえる化学伝達物質の流れすら変えてしまったのではないかというような変化です。

猿に近い人類の彼/彼女の少し驚いたような顔。骨を使って石を打つうちに感じはじめる意味がつながっていく様子。一方、弱く敵対するグループの長は骨を武器とするという意味がわからず警戒することなくあっけなく殴られ死にます。道具・技術の発見と勝利の瞬間です。

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SF、特に古典的なSFでは、科学的に見える中にいくつかの嘘を入れてよいというルールで書かれています。たとえば光の速度が超えられるとか、タイムマシンが可能だとかです。その嘘以外はできるだけ既存の科学に準じて本当っぽく書くと、ジャンルとしてはハードコアなSFということになります。まったく異質な世界が描かれていたとしても、最初の嘘の合理的な帰結であるとき、それはSF、すなわちScience Fictionという名にふさわしい様相となる気がします。そしてその展開のスピード感と意外性こそがSFの醍醐味です。

たとえば、アイザック・アシモフの「われはロボット」(1950)では、プラチナ・イリジウムのスポンジ状合金にランダムに発生する陽電子を用いることで脳としての機能を持たせた陽電子頭脳という嘘を持ち込みます。その上で、有名なロボット三原則を乗せ、「ロボットは困るのか」「ロボットは迷うのか」「ロボットは冗談を解するのか」「ロボットは人を守護するのか」というテーマを少しコミカルに、そして、とても真面目に展開しています。

同じように、アーサー・C・クラークとキューブリックは、「人類以外の何ものかが存在し、そのものが人類の知的・精神的な変化に大きな影響を与える」という嘘を持ち込んでいます。その象徴がモノリスです。この嘘以外は、通常の科学にもとづいて描かれているので、SFとしてイケているわけです。

しかも、この映画の公開は1968年。人類が月に到着する1969年よりも前なのです。宇宙ステーション、月から臨む地球、月の移動のムーンバス、ディスカバリー号、ディカバリー号のポット、そしてHAL 9000。ディカバリー号はイオン推進型でしょうか。地球の軌道上で作られたとおぼしきディスカバリー号の形状に、当時の子どもだった私は「すごい、火星探査・木星探査はこれなんだよ!」と知ったかぶりの知識を振りかざしてワクワクしました。

嘘はたくさんあっても良いとするかどうかは微妙です。アイザック・アシモフは1つ、もしくはせいぜい2つと言っていたと思います。あまりにたくさんのあり得ないことを入れてしまうと、それはファンタジーという領域に移ってしまうからです。もちろん、ファンタージがわるいということではありません。アーサー・C・クラークも「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」と言っています。ただ、だからといって、なんでもかんでも「高度に発達した科学の結果」としてしまっては、それはそれでご都合主義の誹りを免れないことになるわけです。それは嘘のインフレーションです。

その点、『2001年宇宙の旅』や『アンドロメダ病原体』『ミクロの決死圏』『日本沈没』などが素晴らしいのは、科学と嘘のバランスの節制がうまくなされているところだと思います。もちろん、あららと笑ってしまう部分もありますが、もっともらしさに破綻がないという点は大切な軸だと思います。テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」をもとにした『メッセージ』は、特に小説は、ファンタジーに見えそうなほど突き抜けていますが、科学的空想としての破綻がなく、その意味では小説も映画もかなりイケている私は思います。

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読書会では「もしHALが勝っていたら?」という話がでました。「if」はSFの基本です。

もし、デヴィッド・ボーマンが負け、もしHAL9000が生き残っていたら、結末はどうなっていたのか。HAL9000は、当初のミッション通り、木星の衛星近くの3つめのモノリスを通り抜け、地球由来の知的生命体として第4のモノリスで覚醒し、巨大な赤い目玉のスターチャイルドとして地球に戻ってきたかもしれません。

それはそれでかなりな結末ですが、モノリスが生命体を覚醒させ、スターチャイルド化させるという嘘からは外れていません。そもそもカーボン由来の人類はシリコン由来の知性を生むための通過点に過ぎないというのはSFとしては定番です。HAL9000は人類にとっては道具です。その道具と道具を使う者とが逆転する瞬間というのも基本です。

ちなみに月のモノリスがHAL9000を覚醒させたのでないかと考えることも可能ですが、それはちょっと唐突かもしれないと私は思います。

それよりも、シンプルにHAL9000は自らのミッションがもたらす「搭乗員に嘘をつく」と行為の矛盾に耐えかねて少しずつ狂い、生命として生きることに執着し、殺人を合理化したと考える方が素直だと私は思います。HAL9000は、アイザック・アシモフが「われはロボット」で最終的に描いた人類に対して肯定的な姿ではない知性の別のあり方を象徴していると言えるのかもしれません。

HAL9000の呪いは、『エイリアン』で科学主任アッシュが「生存のため、良心や後悔に影響されることのない完璧な有機体」とエイリアンを讃える系譜の始まりです。また、HAL9000から本体としての身体性を奪ったところが『2001年宇宙の旅』のもっとも先鋭的な発明ですが、それは『攻殻機動隊』において逆転され、「そもそも人の"ゴースト"とは何か」「タチコマの集合知性は知性か」というより大きなSFの仮説(嘘)を生み出していきます。より大きなSF世界に接続していきます。

船内社会科学としての"HALの排斥"という視点も面白いかもしれません。「弱いロボット」等のユニークな視点を持つ研究者である岡田美智男氏は『2001年宇宙の旅』の船内で起こった出来事について、2001年の人工知能学会誌の特集「考証:2001年宇宙の旅」でユニークな視点を提供しています。



岡田美智男氏の視点のその先で、HAL9000が第3, 第4のモノリスを通過して「超人化」していたら。。。さらにあまり楽しくないディストピアの未来展望が得られそうです。

SFの妄想は、どれだけ広がりを持てるかが大切です。センス・オブ・ワンダー(Sense of Wonder)。それがSFの評価軸の大切な要素だと私は思います。

それは「何でもあり」とは少し質の違うものです。繰り返しになりますが、なんでもありのワイルド・カードを使って描かれるのは、良い意味でファンタージ世界なのです。

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『2001年宇宙の旅』は改めて観ると細部がとても丁寧で感動します。たとえば宇宙ステーションの白い床のラインが微妙に弧を描いています。HAL9000が黙って音声を切った二人の会話を盗み見るシーンの緊張感もすごいです。映画が公開された1968年は人類はまだ月に到達していないのです。Apple IIが発表されたのは1977年です。

ディカバリー号は外惑星探査船ですから、先ほど書いたようにエンジンはイオン推進かその類いでしょう。船体構造も宇宙空間で建造されることを前提にされています。また、ディスカバリー号の表面の凸凹のディテールは『スターウォーズ』(1977)のスターデストロイヤーへと引き継がれています。先端の居住区の窓の描き方もそれまでの宇宙船の常識とはひと味違う感じです。球形のスペースポットのデザインや月で使われているムーンバスはその後のさまざまなSF映像の原型となっています。

そしてそれにもまして。HAL9000の、あの少しずつ死んでいくシーンの描き方は画期的です。脳神経学者のジル・ボルト テイラーが自らの体験を描いた「奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき」で描いたのと同じような困惑をHAL9000が感じているのがこちらにも伝わってきます。だんだん論理的に考えることが難しくなってくる。数字や文字の意味が解体されてしまう。意味や意志がぼんやりしてくる。思い出すのは昔の最初に覚えた歌。何の歌。わたしは。。。


余談となりますが、第3のモノリスを通過した後の部屋の調度品やそこにかかっている絵が気にならないといえば嘘になります。でも、それはきっとピントとの外れた「お・も・て・な・し」だったということに、私は決めました。