活発な議論が交わされて、読書会はとても有意義なものになりました。参加者がいろんな角度から意見を述べ合うことにより、作品をより深く掘り下げることができたように思います。

    この作品はラストで読者に大きな謎を投げかけます。主人公の朝子は真夏の海で2人の子供と義妹を失います。忌まわしい事故から2年後の夏、朝子は事故現場に戻り、子供(亡くなった子供たちの弟と妹)や夫と共に波打ち際に佇みます。朝子は何を待っているのでしょうか。

    本作は子供を失った母親の悲しみというよりも、朝子の空虚感がテーマになっています。朝子は死んだ子供たちの夢を見ない日はない、事件を忘れてはいけないと言ってはいますが、遺体に取りすがって号泣するようなシーンはなく、悲しみを体で表現していません。むしろ朝子はあれほどの不幸に遭いながら、自分が絶望しないこと、狂気に陥らないことに絶望しています。そして事件の悲しみが癒えかけた頃に激しい空虚感に襲われます。

    朝子は事件直後から自分に事故の責任がないにも関わらず、周囲から非難の目で見られることに苦しんでいました。事故は朝子が宿の一室で午睡をしている時に起こりました。子供たちが波にさらわれた時、子守役であった義妹が突然心臓麻痺で倒れ、助けることができなかったのです。静かな海で、満潮の時刻でもないのに、突然襲ってきた高波に子供たちは命を奪われてしまいました。この事件があまりにも偶然によって支配されているために、朝子は現実感がもてないのです。

    こうして朝子は徐々にあのような大きな怖ろしい事件に出会うだけの資格が自分たち夫婦に在ったかどうかを、疑わしく思うようになった。あれは全く偶然の作用であったが、それが偶然であればあるだけ、自分たちにふさわしくないように思われた。(新潮文庫    p206)

    
    朝子が抱いた空虚はこうした現実感のなさや事件の偶然性に起因するものと思われます。朝子が波打ち際で待っていたものを示唆する記述が作品の中程にあります。朝子は義妹に子供を任したことは自分の責任であると夫(勝)に言いながら、心の底では責任を負わされることに不満を抱いています。

    「やっぱり私が悪かったのね。あたくしが無責任だったのね。安枝(義妹)さんに子供三人を任すなんて、無理がはじめからわかっていた筈じゃないの」
    その声は山に向って反響をためしているように空虚である。
    勝は妻のこのしつこい責任感が何を意味するかを知っていた。彼女の待っているものは或る種の刑罰である。(新潮文庫    p200)

    
    短篇集「真夏の死」に所収されている「翼」という小品に、ウィリアム・ブレイクの逸話が載っています。ウィリアム・ブレイクは幼い時、ある大樹の梢に大ぜいの天使が群がっているのを見ました。このことを母に告げると、母は信じず、幼いブレイクをなじり打擲(ちょうちゃく)しました。「天使を見たことに半信半疑だったブレイクが、天使を信じるようになったのは母親に打たれた時からに違いない」と「翼」の主人公の葉子は考えます。ここに三島に特徴的な<転倒したロジック>があります。

    朝子は何故刑罰を待っていたのか。それは自分の罪を確認したかったからではないでしょうか。罪があるから罰があるのではなく、罰を受けることによって逆に自分の罪を認識するという<転倒したロジック>がここにもあります。偶然を必然・宿命に変えるために、事件に現実感をもたせるために、朝子には罪の意識が必要だったのです。罪悪感は空虚を埋め、待ち望む狂気に朝子を陥れることができます。

    この作品はレアリズム小説ではなく観念小説です。観念の世界の中で悲劇を構築し、悲劇からの救済を描いています。狂気や絶望を求めて呻吟する朝子の姿が、私には三島由紀夫自身と重なります。