『ムーミン谷の仲間たち』の読書会では、グループでの読書会と訳者の畑中さんを囲む懇親会両方に参加しました。

今回は課題短編の1つ『この世の終わりにおびえるフィリフヨンカ』について書きます。

フィリフヨンカは、独身女性が自分を投影しやすいキャラクターであると思いました。読書会で指摘された彼女の人物像は主にこうです。



・女系家族の娘?
・モノに囲まれて暮らしているが必ずしもモノによって幸せになっていない
・安心できるはずのマイホームが苦しみを濃縮する磁場になってる
・自分がこうしたいというより「こうあるべき」という様式にこだわる
・隣人の夫人とあんまり相互理解のない人付き合いをしている
・ただし隣人とのお茶会は真っ当な社会人にとって大事という意識があるのかむりして付き合っている
・そして世界の終わりに怯え世界の終わりがくるはずという信念にとらわれてる


「この世界の終わり」がなんのことかは具体的にはわかりませんが、彼女が青空のむこうや さわやかな海の水平線に常に幻視していた「恐ろしい何か」であり、世界の終わりは一種の天変地異という形で物語の後半具現化します。

彼女を縛っていた(あるいは彼女が勝手に苦しみの場所にしていた)家そのものを吹き飛ばし、物理的に彼女の妄執を蹴散らしてしまうのです。家や大事な品物を失った彼女ですが、その破壊がカタルシスをもたらし、自分の外の世界の美しさに目が向きます。家はぶっ壊れていますが、「涙を流しながら笑っている」とあったように人生観が変わるようなスッキリした感覚を持つに至りました。

こうしてみると物語の筋は簡潔であり読解の間違いはそうそう起きないように思います。しかし読書会ではこの孤独な独身女性の内面感情やガフサ夫人との間にある人間関係に対する解釈が人によって大幅に異なっていたように思いました。

もっと言うと、今回のムーミン読書会においては、「一つの物語や一人の人物像に対して 共同解釈をして行く」というより、ほとんど誤解のない物語の筋・キャラクター設定を通じてそれに投影する読者の固有の人生観や思考回路、ものの見方の違いが浮き彫りにする部分が大きかったと思います。

一つの作品について意見の一致を得る、というよりそれぞれのある程度固定された解釈を 知ることで、解釈の多様性というか、「自分ではまず考えないだろうな」という解釈の他者性というものを強く感じる機会となりました。

たとえば、フィリフヨンカの設定を通じた解釈の一つに以下がありました。

・どうしようもない欠点がある人であり普通だったら関わりたくないと思うような女性
・夫人と会話していても自分の考えを投影するばかりであり他人をちゃんと観ていない
・自分のフィルターを通した世界にしか関心のない 閉じた女性である


また別の解釈ではこうでした。

・まあ彼女はかくあるべしという「女性が社会から求められる規範」に押しつぶされそうになっている
・ある意味社会的な被害者である
・ガフサ夫人は女同士でありながら彼女の苦しみを理解しないのでシスターフッド関係を築けない
・フィリフヨンカが解放された後に今度は彼女が不安症になっていることから、最後まですれちがう
・ガフサ夫人はフィリフヨンカにとっての圧倒的他者である


なぜこのような解釈の違いが生じるのか考えてみました。

まず一つ目、最初に言ったように、フィリフヨンカが普遍性あるキャラクターであり、自分の人生や、自分が関わってきた偏屈な女性を投影しやすいキャラクターであるからでしょう。

二つ目は、ムーミン作品が誰も知らない作品ではなく細部まで読み込んでいる読者が多い作品であるからであると感じました。フィリフヨンカという人物についてもすでに解釈が固定されているケースが多いと感じました。この作品に思い入れがある人からしたら、その解釈はディスカッションなどを通じても変化しなさそうでした。

三つ目は、「強制的な変化を通して苦しみや抑圧から解放される」という筋に自分の人生の実感を投影することで、自分自身が癒され、物語を特別なものにする可能性が開かれているから、ではないでしょうか。

フローチャート?みたいにすると…

①フィリフヨンカは抑圧された女性
(抑圧理由←自分のバックグラウンド投影可能)

②ガフサと上手く行っていない
(理由←自分の実体験や女同士の関係あるあるを投影可能)

③世界の終わりへの期待と実際の天変地異
(期待←自分が思ってる苦しさや世界への絶望を代入可能)

④泣きながら微笑んでいたラスト
(③で考えたことが解消された時に感じるであろう気持ちを代入可能)


(    )の代入・投影可能な部分に自分のバックグラウンドや自分の人生観を入れて視ることで、フィリフヨンカの物語を通じて自分の苦しみをも癒されるような気持ちになるのかもしれません。読解フローチャートは同じであっても そこに代入する感情や解釈は人によって異なり、だから解釈も唯一無二になるのだと思います。

今回の読書会の場合は共同解釈というよりかは、フィリフヨンカ人の人生の物語に対する「解釈違い」を通して他者の人生観や他者の考えているであろう苦しみに思いを馳せる機会となったように思えます。

おまけに…
私がフィリフヨンカについて代入した人生観とそれにもとづく解釈も述べてみます。

①フィリフヨンカは抑圧された女性
<解釈>
彼女は孤独であるが、孤独の自家中毒になってしまった女性である。女系家族であり「しっかりしなければならない」という女性特有の抑圧はあったが、抑圧を拒否することができず、自分を縛っているので苦しみが生じている。
物を捨てられないのもやたら様式にこだわるのも、本来だったら別に誰からも強制されていないんだからすべて放り出してズボラに生きることも別に可能だったはず。

<解釈したバックグラウンド>
ほぼ自分の生育環境から来る解釈で、私の周囲の家族は極めて几帳面だったのに、私個人はズボラが治らずバイトをクビになる/大学の試験日を間違えるなどのヘマをしてもそのズボラ癖が治らなかった。「几帳面にしなさい」という抑圧をそのまま受け入れるかどうかはもう個人の先天的な特質によるところも多いと思う。几帳面にしなきゃという思いや引け目はあったが自分はできなかった。

かくあるべし、の様式を他人から強制されているなら不幸だが、「かくあるべし」で自分を縛っている場合は自分を不幸にする信念との向き合い方が大事ではないか、と考えるから。

②ガフサと上手く行っていない
<解釈>
ガフサ夫人は話は合わないしあんまり配慮がないのは確かだが、普通の人であると感じた。他人というのは往々にして自分以外の他人の自意識に興味関心を持っていないのが普通である。親友でない限り苦しみに寄り添ってもらおうなどというのは高望みだという気持ちもある。一応気を使って電話もするし、家が吹っ飛ばされたら駆けつけてくれるくらいの気遣いはある。

こう考えると夫人は 普通のそこら辺にいる他人よりかはまあマシな良心があり、ややお節介な類の人間であるようにも思える。

<解釈したバックグラウンド>
これも私がメンタルの状態良くなかった時に知人に対して過大に理解して欲しいと思ってしまった経験があるから。自分がちゃんと自己開示していないのにそこまで理解を望むのは勝手だろう、という反省も未だにあるから。

③世界の終わりへの期待と実際の天変地異
<解釈>
この世の終わりに怯えることについては「この世の終わりがやってきて自分の生活を破壊して欲しい」という思いの裏返しであると感じた。この世の終わりを信じていない人たちに対して、彼女が怒りを覚えることからも推察できた。

ムーミン全集の訳者・畑中麻紀さんからは「この世の終わりに怯える」というのは分かりやすさを重視した訳であり直訳するとこの「世の終わりを信じるフィリフヨンカ」(catastropheを信じるフィリフヨンカ)という題名であると教えていただいた。この「信じる」という主観的な表現がかなり大事だと思う。フィリフヨンカにはこの世の終わりが訪れてもらわなければ困るのだ、と感じた。

これは自分で自分の生活を刷新したりするようなことはできないものの、外部の力で自分を変えたい、自分の辛さを取り払って欲しい、あるいはもはや何も感じなくなるように自分自身を破壊しつくして欲しいという願望の裏返しであると感じた。

<解釈したバックグラウンド>
この解釈も私の主観にかなり基づいており、なんか人生がうまくいっていない時に「明日世界が終わってくれないかな」という夢想を度々していたからである。私の場合はもう少し 局地的な世界の終わりを望んでおり「明日台風で会社が吹き飛ばされないかな」とか「本社に雷が落ちて再起不能になってくれないかなぁ」などと言う天変地異任せな変化である。

④泣きながら微笑んでいたラスト
<解釈>
実際に竜巻が起きて解放されたように感じたのは、自分が再生するための「疑似的な死」を体験できたからかもしれない。

<解釈したバックグラウンド>
自分も早くこういう境地になりたい…という思いから。

こうして改めて自分の主観やバックグラウンドをこの物語の筋に投影してみると、自分の命と大事な少数の持ち物だけが残ったというラストはやはり非常に感動すると感じました。

ここの解釈はむしろ一致しない方が良いのかもしれないと思います。自分なりの人生観を代入してこのラストを体感した方がより読書体験が特別になるのかもしれません。読解が一致していても解釈の多様性が揺るがない個人の解釈がある方が作品の普遍性も高まります。読書会で聞いた他者の解釈も拒絶しないで、別々の人生を歩んでいる他者理解の一環として大事にして行きたいです。