『バルザックと小さな中国のお針子』読書会に参加しました。

中国の文革当時のリアルな暮らしぶりと、本を禁じられた社会での本への憧れや価値が、爽やかな青春小説だけで終われない切実さや反動的な美しさを浮かび上がらせていて、これ自体がこの時代や人の思いを宝のように結晶化したような本だなと思いました。

ストーリーは、例えばこの舞台を日本に置き換えたとしたら、すごく馴染みやすい青春の一コマになるんですよね。都会からど田舎に転校してきた高校生の男の子二人が、雛には稀なる美少女に出会って、背伸びした流行りの趣味を女の子に教え込んでるうちに、本場が知りたくなったからって二人を置いて女の子は出てっちゃった、とか。

もしこの筋書きの舞台設定が現代日本だったら、日本の読者である私たちが読む際、筋書き以外の要素は、共通認識の土台がある知識として、意識のうえで省略可能。それぞれが描写の妙を味わって愉しめばよい。
中国の文革当時の舞台で、バルザックを始めとするフランス文学への憧れを、現代日本の私たちが読む、という、異なる地点&時間軸の眼差しの三角関係のようなものが、読み応えと興味深さの肝のように感じます。

読書会で印象深かったのは、メガネくんのキャラクター理解です。
私自身は、メガネくん:スネ夫、僕:のび太、羅:ドラえもん、的な配役を連想していました(とすると、のび太を差し置いてしずかちゃんと結ばれてしまうドラえもん…?!男女の三角関係的には羅:出来杉くんかなぁ。辛い状況を打ち破る信頼・協力関係では羅:ドラちゃん)。スネ夫は典型的に掌を返すイヤな振る舞いをする奴だけど、話は通じる仲間、的な立ち位置。でもこの物語回では、山の歌を採取してくれた二人に感謝もなく文句つけるし、歌詞は勝手に変えちゃうし、母親への手紙では喧嘩した僕のことを盛り気味に母親に言いつけるし、嫌なところが強く出てるスネ夫だなぁ。。と。もしこの話が現代日本が舞台の話だったら、おいおいスネ夫くん、そりゃ友だちに対してあんまりじゃないか、とたしなめる風な反応になります。
でもこの、スネ夫にあらざる、メガネくんの置かれた状況、舞台は文革時の中国。生き延びるのに必死だったメガネくんのこの行動は、すごく良く分かるし、自分もそうする、という意見を何人かから伺って、確かに、身に差し迫った危機感の下では、スネ夫的な行動は最適解。。とは言わずとも、そうやって生き延びていくこと自体は肯定したい、と思いました。
「この状況下なら、こう感じるのも分かる」という感情移入や背景理解を深めるほどに、今自分の内にある「常識」から離れた感情の動かし方も追体験できるのが、文学の素晴らしさ、なのですよね。

駒井さん、新島さん、サポの皆さま、ご同席の皆さま、
お陰さまでたのしい読書会でした。ありがとうございました!