「殺して食っていい鳥」と「慈しみ育てるための鳥」の2種類がこの世にはあるようだが、自分にはその違いがわからない……この本の主人公は、そういう人間だ。
子供の頃、道端で死んでいた小鳥の死骸をみんなが泣きながら埋葬しようとしているのを見て、家に持ち帰って焼き鳥にしようと提案したところ、周りの大人たちはもちろん母親からもドン引きされ、どうやら自分は間違ったことを言ったらしいと気づいた。
 
以来、彼女は自分が「変」であることを自覚し、努めて「普通」のふりをしながら生きてきた。
自分らしく振る舞うと、途端に周囲からドン引きされてしまうからだ。
とはいえ、「普通」の感じ方がわからないので、「普通」を完璧に演じきるのは難しい。
そんな主人公が辿り着いたのが、コンビニの店員であった。
コンビニではみんなが同じ制服を着て、同じ挨拶の言葉を唱えていれば事足りるので、自分らしさなんて求められない。
自分の「変」が、その同質性の中に綺麗に埋没させられるのだ。
 
とにかく、マニュアルどおりにしていればいい。
同僚が無礼な新人に怒っていれば、自分もちょっと怒っているふりをする。
本当は全然怒ってないのだが、普通の人ならここは怒るとこなんだなと考えて、とりあえず怒ってみせれば、同僚は勝手に仲間意識を持って喜んでくれる。
口調も表情も同僚を真似て、極力、同質化するように振る舞う。
そうすれば、他人は彼女を異物と感じることもなく、当たり前のように受け容れてくれるのだ。
彼女にとって「同調圧力」は、自分らしさを殺されることではなく、むしろ生き残るための手掛かりなのだ。
 
面白い!
私もいい加減、周囲に溶け込めない異質な自分に苦労してきたつもりだったが、彼女とは逆に均質化されることに反抗し、同調圧力を酷く嫌って生きてきた。
周りの人間に迎合せず、言いたいことを言ってやりたいことをやり、その結果嫌われたり排除されたとしても、自分らしさを貫くことこそを矜持としてきたのだ。
だから、このヒロインのような人間に、心の底から驚いた。
そうだね、言われてみれば、「自分らしさ」って何なんだろう?
周囲から白眼視されてまで守り抜くようなものだったのか?
 
そんなふうに反省しながら読み進めていくと、私によく似た登場人物が現れた。
「白羽」という名の中年ダメ男だ。
彼は主人公と同様、この社会の不適合者であり、なんなら傍迷惑な異物である。
彼は主人公と違って自分の個性を手放さず、それどころか、自分を不適合者扱いする社会の方が間違っていると考える。
結婚だの就職だの、おまえたちの常識を俺に押しつけるんじゃねぇ!おまえらが俺の価値に気づき、俺のルールに従うべきだ!と。

うわぁ、私にそっくりな傲慢な態度。
そのくせ、彼は世間並みの結婚を望み、社会ルールに則った「成功者」になりたがっている。
なんだかんだ言って、俗物なのである。
ああ、これまた、嫌になるほど私に似てる!
世間の尺度を軽蔑してるくせに、世間的な成功者の記号であるブランド物で身を飾り、若いイケメンという勲章を欲しがってホストに貢ぐ。
結局、世間になんか迎合しないぜと嘯きながら、世間に認められたくてたまらないんだよ、私は。
 
ぎゃあああ、恥ずかしいーー!
「自分らしさ」を捨てないという、自分では矜持と思っていたものが、単なる傲慢で怠惰なワガママに過ぎず、傍目には誇り高いどころか極めて不快で滑稽で傍迷惑だったという事実。
そんな己のカリカチュアを、白羽というどうしようもない男を通して、私は見せつけられたわけである。
賭けてもいいが、この本を読んで白羽に好感を抱く読者は稀であろう。
私も白羽が大嫌いだ。
だが、白羽は間違いなく、私なのである。
ねぇ、誰か、私を一回殺して埋めて!
 
自分が社会の異物であることを自覚し、己の個性を一切廃して「コンビニ店員」という無機質な記号になることを望む主人公。
自分が社会の異物であることに納得できず、自分の価値観を絶対化して周囲を見下すことでかろうじてプライドを保とうと足掻きながらも、社会から認められたいという卑屈な願いを捨てられない白羽。
この2人は対極の存在であるが、世間は同じ「社会不適合者」とみなし、「お似合い」とまで言う。
「いい年をして独身で、まともな職にも就かずコンビニでバイトしている」という表面的な共通項だけで、彼らの目には「似たもの同士」なのだ。
そういった雑な決めつけに白羽は「あんた(主人公)と俺は違う!」などと頑として抗うが、主人公にとってはむしろ、普通人のその鈍感な大雑把さこそが快適だろう。
何故なら、個々の細かい差異に敏感になられると、自分の異質さがより露わになってしまうからだ。
「変な人」くらいで一括りにされていた方が、「どこが変なのか」「何故変なのか」と踏み込んで来られるよりもずっといい。
多様性なんかクソくらえ、というわけだ。
 
この2人の決定的な違いは、どこに由来するのか。
それは「自己愛」の問題だと、私は感じる。
死んだ小鳥を食い物として認識し、その死に涙する人間たちの気持ちが理解できない主人公は、徹底して「愛」という感情と無縁である。
普通人のふりをして世間に埋没したいと願いながらも結婚や出産という営みに腰が引けるのは、おそらくそこに「愛」が要求されるからだろう。
その「愛」の欠如は、他者だけでなく自己にも及び、彼女は自分を侮辱したり軽蔑したりする他人の言動に対してもまったく動じないほど「自己愛」が薄い。
一方、白羽は他者からの拒絶や軽視に敏感に傷つくような、過剰な「自己愛」の持ち主だ。
主人公の望む「何者でもない私」ではなく、「特別な俺」でありたがる。
 
コンビニの棚にずらりと並ぶお菓子の箱のように、お揃いのユニフォームを着て「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」とお決まりの言葉を繰り返す「コンビニ店員」というパッケージこそが、主人公の理想の形である。
そこでは個性が剥ぎ取られ、すべてが均一で同質で、私が「私」であることなど要求されない。
商品が入れ替わっても、店員が入れ替わっても、コンビニという箱は同じ顔をし続け、客から「ここは変わらないわねぇ」などと言われる。
変わっているのに変わらなく見えるのは、コンビニが「のっぺらぼう」だからだ。
どの商品もどの店員も、客にとっては同じなのだ。
そして、その「のっぺらぼう」こそが、主人公の望む「私」なのである。
そこでは、「愛」という感情など余計なものでしかない。
何故なら「愛」は、鳥を食い物と愛玩物に分けるように、この人とあの人とを区別することだから。
相手を「特別な個」として認識する感情は、主人公の望むコンビニ的な均一性や同質性を壊してしまう。
同様に、自分を「特別な俺」として認識する自己愛もまた、主人公には無用の長物だ。
 
この、いっそ清々しいまでの「愛」の欠如を、我々はどう受け止めればいいのだろうか?
羨ましいか?恐ろしいか?
はたまた、胸を横切る複雑な想いを整理できず、自分とは違う「変な人」というラベルを貼って他人事として片付けるか?
私が選んだのは、後者である。
面白かったけど、宇宙人を見ているようだった。
私は、このヒロインを、一生理解できないだろう。
仕方ない、私は白羽なんだから。
他者の「愛」を欲しがり、世間の「承認」を求め、常に「特別な私」でありたがる俗物なんだからね。
こんな「私を捨てる」みたいな悟りの境地とは無縁の人間ですよ。
「則天去私」を唱えた明治の文豪とか「無我の境地」を諭す高僧みたいに、羨ましくもないし憧れもしない。
さりとて不快なわけでもなく、とにかく何の感情も持てない遠い遠い存在だ。
そう、「他人事」なのよね。
それしか言葉か浮かばない。
 
この本の帯には、「村田さんがヨーロッパにおけるクールなアジア系女性の作家イメージをつくってくれた」という推薦文が印刷されていた。
え、これって「クール」なの?
無機質であることが、必ずしも「クール」だとは思えないのだがなぁ?
暑苦しい私には、よくわからないクールさなのであった。
でも、面白かったよ。
それは確か。
 
追記
テーブルでのディスカッションで、面白い話題が出た。
この本が書かれてから10年ほど経った2026年現在、コンプライアンスやらハラスメントやらといった規律がますます厳しくなって、もはや職場では個人的な会話もほとんどなくなり、互いのプライベートへの干渉はもちろん関心を示すことすら憚られて、当たり障りのない無機質な人間関係が普通になっていると聞いた。

なるほど、個々の顔がコンビニに並ぶ商品パッケージのように個性をなくし、均質化されているのか。
確かに、言いたいことを言うとすぐセクハラだの差別だのと突き上げられる世界では、みんなが本音を隠して「のっぺらぼう」になるしかなかろう。
お節介な同僚や押し付けがましい上司などという無駄な個性は排除され、清潔で明るくて安心安全なコンビニみたいな箱の中で、黙々と自分の仕事をこなす人々。
日本社会コンビニ化現象ってわけだ。

多様性なんて言葉がもっともらしく叫ばれてる社会がどんどん均質化していってるなんて、笑っちゃうほど矛盾しまくりだね。
だって、多様性を唱える当人たちが「あれを言うな」「これは差別だ」と正しさで社会を塗り潰し、不愉快な異分子たちを排除した結果、多様性を失ったのっぺらぼうなコンビニ社会が生まれたわけでしょ?

まぁ、この主人公みたいな人たちが身を隠すには、もってこいのユートピアなのかもしれません。
私はきっと白羽と一緒に駆逐される側なんだろうけど、どうせ余命いくばくもない老人だし、べつにどうでもいいや。