「セックスする権利」を読んで、読書会に参加して。

トリコ組オンラインの「セックスする権利」の読書会に参加しました。
「セックスする」権利というタイトルに惹かれて本を読んだものの、本の内容はとてもタフでした。フェミニズムも一筋縄ではなく、社会運動として、社会のあり方によってかたちを変えながら、様々な人がフェミニズムについて論じている。
著者は、簡単に結論にたどり着くことはしないで、考える過程を大事にしていると思いました。本は難しかったですが、読書会は楽しくなるだろうと思いました。

「セックスをする」という動作については、性別にかかわらず、ジェンダーや、政治の影響を受けていると、著者は述べています。一見、プライベートな行動であるセックスでも、セックスに求めるものや、こうあるべきだというセックス観にその人のもつ社会、政治的な背景が現れています。

例えばこの本では、男性による女性へのセックスの強要や、男性向けとされるポルノによっての女性への軽蔑意識の助長など、広い社会現象を分析しながら、それらがセックスに与える影響を考えています。

特に、女性差別主義者によるエリオットロジャーによる、銃乱射事件に触れていて、もし彼が、誰か理解してもらえるパートナーとセックスしていたら、この事件は起きなかったのだろうか?    という問いが提示されます。ここから、「セックスする権利」という言葉がこの本の中で重要な言葉として考えが進んでいきます。

というところまでが、ぼくなりの本のあらすじです。前に述べたようにかなりタフな議論なので、ぼく自身も本を完全に理解できてません。けれども「セックスする権利」という言葉がすごく不思議で、いくらでも話せて考えられる気がしませんか?

セックスを卑猥なもの、社会の表には出てこないプライベートなものと考えると、セックスする権利という言葉は、もしかしたらそうしたセックスを議論するための風通しの良い窓の様に働くかもしれません。

また、セックスが喜ばしいもの、人間に取って根源的な喜びだと捉えれば、セックスする権利というのは、自由の権利や人権と同じように、根源的な哲学のテーマにつながっていく気がします。

また、「よい」セックスをする権利が、セックスする当事者それぞれにあると考えるならば、当事者同士の「よさ」を交渉するためのきっかけになるのではないかと考えています。「よい」セックスって何なんでしょう?    

いつも抱いている欲望が、様々な社会的な影響を受けているとしたら、性的な欲望はまだ自由ではないかもしれません。自由ではないどころか、性的な欲望から、差別、犯罪へととつながる可能性すらあります。だとしたら、なんとなく性的な欲望に惹かれてセックススするのではなく、本当に自分が求めているセックスをするには、どうすれば、どう考えれば良いのでしょうか?    

おそらく、セックスが、相手とのやりとりというところにすべての希望がある気がします。実際のふれあいから学ぶことができます。触れなくても、セックスについて語り、話を聞くことはできます。わたしたちの身体は、感じることができるし、何がうれしくて何がいやなのかを、体験によって学ぶことができる。
完璧なセックスはたぶんない。けれども、セックスをどこに行くのかわからない行為、当事者との間でともに作り上げる行為と見なせば、答えはオープンになり、考えることをやめずにいられるきがします。その中で、「よい」セックスにたどり着くための試行錯誤を、誰かとともにしていけます。もうすでにそれは、セックスが始まっているかもしれないですね。