2022年の猫町最後の読書会でした。
    テーブルによって話した内容はいろいろだったと思うのですが、自分が参加したテーブルは、さみしさがメインテーマでした。
    読書会ではいろいろな話題が少しずつ重なりながらつながっていったので、私の理解や切り取り方が不正確な部分もあるかと思うのですが、自分の中で印象に残った話、ほかの参加者の方のお話を聞いて考えたことを書いてみます。
    同じテーブルの皆さま、いろいろ聞いてくださって、そして聞かせてくださって、ありがとうございました。

「きっといつかさみしくなる」p104~
    読書会の中で、どういうときにさみしさを感じますか?    というお題になったとき、私は、自分の気持ちを分かち合ってくれる人がいないときということを挙げたのですが、自分が疎外されている・人間関係に溶け込めていないと感じるときを挙げた方がいました。
    そういうさみしさについて書かれているのが、フランケンシュタイン博士によって生み出された怪物のさみしさだと思います。
    人と仲良くしたくて、そのために言葉も勉強するなど努力しているけれど、怪物だと言われてしまう。そうしてさみしいときに、自分と仲良くしてくれない人を殺してしまう気持ちは、わかるような、わからないような。手に入らないものは壊してしまいたくなるのかしら。私は自分で死んでしまいたくなるような気がするのですが、それは人によって現れ方が違うということなんですかね(私も、想像の中ではそういう気がするだけで、本当にそういう立場になったときにそうするかはわかりませんけど)。

「依存先を分散させる」p159~
    依存については、以前の二村組の読書会の副読本「魂にメスはいらない」についてのブログ にも書きましたが、依存先をうまく分散させることが必要なんだなと、改めて思いました。
    さみしさやストレスをどうやって紛らわすかというのも、読書会の中で一つのテーマとして出てきました。けっこう、走るという方が多くて、運動がちっとも好きじゃない私としては新鮮な驚きがありました。
    このあたりの話題の関連だったと思うのですが、暇すぎるというのはよくないという話がありました。もちろん人によるとは思うのですが、人間、暇だと、嫌なことを思い出したり、よくない想像をしたりしてしまう気がします。少なくとも私はそうです。とはいえ、余暇を楽しむ余裕がないほど何かに追われている状態というのもつらいので、ほどほどがいいのですが。
    それで、時間の余裕があるときは、何かに集中している状態の時間を作るのがいいんじゃないかという話になりました。走るというのもそう、らしいです。あとは瞑想とか。もちろん読書も。ただ、それが行き過ぎて、やらずにいられない状態になると依存症っぽいのかな。周囲に迷惑をかけない依存症ならいいのかな。   

■「男も女も、抱かれたいと思うときがある」p249~
    二村さんと燃え殻さんが語っている、「抱きたい」と「抱かれたい」ってどういうことだろう?    という話がありました。
    うまく言葉にできないのですが、抱かれるというのは、性的な意味だけじゃなくて、精神的な意味を含んでいるとか、自分を受けとめてもらうこと・肯定してもらうことじゃないかとか、表面的な主導権と実際の主導権の境界線は曖昧な部分があるとか、そういうお話を聞きながら、「僕のセックスは、三文芝居なのかもしれない」という燃え殻さんの告白(p116)を思い出していました。読書会の後に読み返してみたら、「自分を客観的に見ちゃう人はオーガズムを感じにくいのかもしれない」というやり取り(p65)も、共通するものを感じるのですが、つまり、自意識過剰ってことですかね。
    自分を受け入れてほしいと思ったとき、自分をさらけ出すこと自体、すごく勇気の必要なことなんじゃないかと、私は思います。私の場合、出そうと思わなくても出てしまっている部分はいっぱいあるのですが、意識的・自覚的に自分を解放するみたいなことがすごく苦手です。
「抱きしめられたいし、包まれたい」という気持ち自体はすごく表明しているので、またちょっと違うかもしれないですけど。
    なんとなく、燃え殻さんが、自分の本当の姿が相手にばれてしまうことを恐れていることと共通するものを勝手に感じています。