映画から入ってしまったからか、やはりどうしても映画と比較しながら読んでしまった。
映画のほうは8割アッシェンバッハ、2割タッジオという感じだったけど、こっちは10割アッシェンバッハだった。もうずっとアッシェンバッハ。
基本的なプロットは同じなのに、映画と原作の持つテーマや表現しようとしていることはまったく違うように感じる。
「ベニスに死す」のレビューで書いたとおり(https://nekomachi-club.com/blogs/241587c33cbe)、あの映画は作為的な美を追求してきたアッシェンバッハが無作為の美に触れ、凝り固まった自分の檻から開放される話だと解釈したが、この小説が表現しようとしているのは映画よりもももっと根源的な恋、それも身を焦がし、破滅に導かれるほどの恋だ。誤解を恐れずに言うなら、原作の世界にはアッシェンバッハ以外の人間は登場しない。「ヴェネツィアに死す」は他者の存在しない世界を描いている。
タッジオへの憧憬、ヴェネツィアの情景、そして自身の死すらも、すべてはアッシェンバッハの中にある。この小説は自己愛(ナルシシズム)の物語であり、決して到達できないからこそ抱く強い渇望に身を焼かれて死んだ男の話だ。


恋愛をテーマにした物語の中で、人は誰かに恋い焦がれ、近づき、結ばれ、そしてともに歩んで行く。
フィクションの世界で恋愛というのはよくテーマとして扱われるが、それには種類がある。それは主に「恋」をテーマにしたものと、「愛」をテーマにしたものだろうと思う。

「愛」をテーマにしたものは、相手の人生に関わっていくことが要求される。本来別々の人生を歩んできた人同士が互いを思いやり、衝突したりしながら互いの絆を深めていく。それはじんわりと暖かく、路傍を照らす灯火のようなものだ。
だが、「恋」は違う。否応なくそれまでの世界を塗り替え、出会ってしまったら最後、出会う前の自分には決して戻れない。出会い、強く惹かれ、どうにかして近づきたい、相手に気に入られたいと願う。恋は言ってみればその人の内側から身を焦がすものであり、時として痛みを伴い、場合によってはその人を徹底的に焼き尽くししてしまうことすらある。
そして、恋は必ずしも相手への理解を含まない。

アッシェンバッハはタッジオに恋をしている。しかし、彼は血肉の通ったタッジオに興味があるようには思えない。アッシェンバッハはタッジオを描写するとき、熱っぽく彼の美しさについて言及する。神話や古書の引用を交えつつ、ほとんど胃もたれしそうなくらい褒め称えている。しかし、それから決して次のステップに行くことはない。
次のステップとはタッジオの内面である。彼が何に興味を持ち、何を美しいと思い、何に怒るか、という内面を理解したいという欲求がほとんどないのである。それどころかアッシェンバッハはおそらく本人と言葉を交わし、意見を交換したいとすら思っていない。

彼は恐れているのだろうと思う。表面的には自分が醜い老人であり、彼に拒絶されることを恐れているように見えるが、さらに深い部分にはもっと別のことを恐れているように思う。それはすなわち、彼の中にあるタッジオと現実のタッジオが乖離してしまうことだ。

アッシェンバッハは血肉の通ったタッジオではなく自分の作り出した鏡像としてのタッジオに恋をしているのだ。アッシェンバッハははじめてタッジオに微笑みを与えられたときに「それはナルキッソスの微笑であった」と述懐している。「鏡像への憧憬」それこそがこのヴェネツィアに死すでトーマス・マンが描きたかったことではないだろうか。

実際、タッジオを描写する語りの部分は興味深い。胸焼けしそうな美辞麗句が一通り終わると、次にアッシェンバッハの内省の世界に入るのである。なぜ自分はタッジオに恋焦がれるのか、その考察を長々と述べ立てるわけだ。アッシェンバッハにとってタッジオは近づいて愛を育みたい相手ではなく、自らの内省を深めるための対象でもあるように思う。

相手は自分の作り出した鏡像であるため、決して到達することのできない恋でもある。恋愛を火に例えるなら、マンが表現しようとしたものは炎のいきおいが最も激しく最も温度の高い瞬間を捉えたかったのだろう。恋の対象が年端もゆかぬ少年であること、そして今別れてしまえばもう二度と会うことはない、という障害もアッシェンバッハの情熱を行き場のないものにさせている。

ただ、この小説が傑出しているのは、ただアッシェンバッハの視点だけで終わらないことではないかと思う。冒頭の船の中でアッシェンバッハは着飾った老人に熱烈な求愛を受ける。それに対してアッシェンバッハは辛辣な描写と態度で答える。

ところが、終盤、タッジオに気に入られるためアッシェンバッハ自身も船で出会った老人と同じようにめかしこみ、タッジオを誘惑しようとする。その滑稽さがアイロニーとなってビターな読後感を与えている。

ただ、この小説のアッシェンバッハは年甲斐もない恋にうつつをぬかした滑稽な老人だと断じることができないように思う。恋のはじまりはいつもいくぶんかの自己愛を含んでいるのかもしれない。そしていかなる知性と評価を得た人間であったとしても恋に落ちてしまえば、逃れる術もなく巻き込まれてしまうものだ。ちょうど人間が死すべきさだめから逃げられないように。