アウトプット読書会に参加しての読書メモ。課題本は、ブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』。

ブレイディみかこさんは、以前に読んだ「子どもたちの階級闘争―ブロークン・ブリテンの無料託児所から」、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」が、非常に面白くて、続編が出るらしく予約して発売を楽しみに待っているところです。今回の本の前書きによれば、「ぼくはイエローで・・・」で触れられた「エンパシー」について、さらに掘り下げて書かれた、いわば「ぼくはイエローで・・・」の副読本とも言えるとのこと。

エンパシーという言葉自体は、これまでにも聴いたことはあったのですが、私の中では共感や受容という捉え方をしていて、様々な場面で大切なのだろうけれど、少し押しつけ感も感じて苦手とも思っていたのですが、どうやらエンパシーには非常に多々、派生した考え方、捉え方があるらしい。
エンパシーについて、「「 共感」ではない他者理解がある」「 誰かの靴を履く」として、「「 わたしがわたし自身を生きる」 アナキズム と、「 他者 の靴を履く」 エンパシーが、 どう 繫 がっ ているのか」を、文献も引用しながら述べられています。

まず最初に示されている似た言葉「シンパシー」との違いを読むと、既に自分がこれらを混同していた、同じようにとらえていたことがわかります。エンパシーはに「 ability( 能力)」であり、訓練して身につけたりスキルの熟練度やレベルを上げられるものらしい。そして「シンパシー は かわいそう だ と 思う 相手 や 共鳴 する 相手 に対する 心 の 動き や 理解 や それ に 基づく 行動」 で あり、 「エンパシー は 別に かわいそう だ とも 思わ ない 相手 や 必ずしも 同じ 意見 や 考え を 持っ て い ない 相手 に対して、 その 人 の 立場 だっ たら 自分 は どう だろ う と 想像 し て みる 知的 作業」であるらしい。
さらには、エンパシーにはいくつかの種類があるのだそう。提示されたそれぞれのエンパシーは、シンパシーと重なるものもあって、全てエンパシーと呼ぶことで混乱を呼ぶように思われました。

課題本では、ポール・ブルームの「エモーショナル・エンパシーが理性的な状況判断をできなくするという危険性」「自分をモデルに他者を理解しようとする」ことによる不一致という意見を紹介しています。対して金子文子を挙げて、「自分の靴を脱ぐことができるが、彼女の靴はいま脱いだ自分の靴でしかない」と、エンパシーと自己を保ち続けることの両立の例とし、「自由」があってこそ「他者の靴を履く」ことができるのだとして、「アナーキック・エンパシー」を提言しています。

課題本で紹介されている映画「プリズン・サークル」中のTC(Therapeutic Community 共同体)プログラム」は、まさしく依存自助グループで行われている互いに経験や現状を語り合うようなもので、そういった対象には有効なトレーニングと思う一方で、自分がそのトレーニングをやりたいとは思えない、その方法でエンパシーのスキルを訓練したいとは思えないのが正直なところ。感情や訓練を言語化して伝える訓練の必要性は理解できるのですが、自分を開示して伝え、伝えあうのが「 I (アイ)」の獲得と言われると、だいぶ腰が引ける気持ちがします。

他に本書で面白かったところ、興味深かったことの一つはSNSについて。SNSが登場したとき、リアルな思い、しがらみも伴う人間関係に対して、SNSでは「ウィーク・タイ」、ゆるやかなつながりと、ささやかな継続的つながり、ストローク・タイにより、ストレスの少ない、自己肯定や承認欲求が満たせることが期待されたと思うのですが、実際のところ、そうなっていない部分が多々あるように感じていました。それについて「SNS や「 共感 ボタン」 で リンク する「ゆるいつながり」 は簡単に共有することができる。が、ネットも実は表舞台の一つに 過ぎず、 それどころかいったん上がると降りることが難しいネバーエンディングなステージだっ た」「この「 印象 操作」 こそ、まさにSNSでのコミュニケーションの基盤」という部分は確かにあるのかもしれません。ただ、ネットでのつながりにエンパシーが生まれえないとは、思えませんけれど。

コロナ下での他者の状況、貧困や困難の想像ができないこと、高齢者と若者との間の世代間闘争やジョブ間での対立、自助努力の求めやエリート、サッチャーなどのエピソードは、最近読んだマイケル・サンデル「実力も運のうち」が思い出されました。

フリッツ・ブライトハウプト「The Dark Side of Empathy」の意見の紹介は、最初読んだ時には少し飛び抜けている(とがっている)感がありましたが、「エンパシー搾取」「エンパシーによる忠誠」「ヘリコプター・ペアレント」という言葉や、エンパシー が対立する二者の緩和剤となるより「 むしろ「友 vs 敵」の二極化が激しくなる要因になる」という論、トランブ元大統領が「他者からエンパシーを 集めるのが得意」という説明が非常に腑に落ちました。

もう一つ、本書で非常に興味深かったのは、紹介されているフリースクール「サマーヒル・スクール」です。「子ども たち の自由」を教育の中心に据え」「校則は子どもたちが話し合って決め、 教員も子どもも等しく 1 票ずつの投票権を持っ て いる。 教員 や学校側がルールを決めて子どもたちに トップダウン式に下ろすことはしない。」には、名前だけは聴いたことのあった「マリア・モンテッソーリの教育法」と共に非常に興味を惹かれました。
また「英国教育省 発行の保育のガイドライン」から紹介されている 3 歳 4 カ月 から 5 歳 までに 子ども に身につけさせたい到達 点の 一つという、「 自分の権利のため に立ち上がる自信と能力を示す」 という 目標 が あり、 それを達成するためには「 子ども たちが不公平を訴えたら、 敬意を表してそれを聞く 時間を作り、 最も状況 に 合っ た 解決法を彼ら と 一緒に見つける」 こと を 保育士 は 日常的 に 行わ ね ば なら ない」にも非常に興味を惹かれました。
大人が決めるのではなく、子どもに解決法を考えさせる、大人はその選択や思考の手助けだけをする、「 自分はこう 思う」「 それは違う ん じゃないか」 と 小中学生でも親と対等に意見を述べる」機会を普通に持つというのは、現状、この国に無い姿で、自分自身もできていないことで、でも自分が子どもであった時を振り返って、あってしかるべき、これからあるように心がけたい姿だと思われます。

この本で提言されている、そして読んで知ったことについて、得たこと、今後に活かせることは何か、なかなかそれは難しくて、読書会でも、その場では結論が出せなかったのですが、その後でもう一度読み直して、今後、少なくとも自分が「エンパシー」のようなものを感じているときに本書を思い出して、それが感情的な同調だけになっていないか? 自分や他者を客観的に観る余裕が持てているか?、自分を保てているか?と、自己チェックすることを忘れないようにしようとは少なくとも思っています。