読書猿さんから、第7回目の質問回答をいただきました。




・読書猿さんが考える「人文知」の手法の要諦は何でしょうか。読書猿さんが「人文知」というとき、その前提となる定義やイメージがあるような気がするのですが、それがよくわからなくなってしまいました。自然科学系の「仮説・検証」や「ピア・レビュー」のような根幹の手法が、「人文知」にはあるのでしょうか?

→私が考える人文知を一言で言い表すなら、「書き言葉を外部足場として活用する知的営為」です。できるだけ広くまた古いものから新しいものまで包含するために抽象性が高すぎるかもしれません。
人間は書き言葉を重ねる中で、その量的拡大から、取り扱いが生まれつきの認知能力を超え始めると、書き言葉を扱うために、書き言葉を外部足場として活用することを始めました。具体的には、目次や索引や文献目録といった技術です。
また書き言葉を理解するためにも、書き言葉を外部足場として活用するようになりました。注釈や欄外の書き込み、それらをまとめて
辞典のようなレファレンス書を作ることなどがこれに当たります。
書き言葉を外部足場として活用する技術は、このように長い時間をかけて再帰的に拡張されてきました。いまではこの技術は、専門分化した諸学問に分有されていると思います。
たとえばピアレビューは、人文知の近代における統合であったフィロロギーのゼミナールで開発された手法を、文書を介してリモートで行うようにしたものです。
歴史学の史料批判も、フィロロギーのゼミナール出身者たちによって分有されるようになったものです。



・メディアとしてSNSや出版社はどのような存在でしょうか。《会読》の緩いコミュニティととらえてられるのか、知を拡げ繋げるための《書籍》の延長と考えられているのか、あるいは《マーケティング》的なミームの乗り物とお考えなのか、それ以外の何かでしょうか。

→そのどれもであるのかもしれませんが、私は少し違った目で見ています。
まず出版社ですが、これは書物の森の多様性を支える再分配機構です。その前提は、商品としてみたとき、書籍の売上なり部数は、大まかにいってべき乗則に従います。ざっくり言うなら、数少ない書物がバカ売れする一方で、大多数の書物はあまり売れません。出版社はバカ売れした少数の書籍から得られた利益を、次に本を作ることに投じることで、一つのベストセラーから多数のマイナー本を生み出し、ているのです。一見、出版社などなく、誰もがセルフパブリッシングした方が多様な書物がうまれそうですが、投稿小説サイトや同人の人気ジャンルへの集中、あるいはTwitterのフォロワー数の分布などをみると、べき乗法則の力は強いように思います。
SNSについては不勉強でよく分かってないんですが、まず会読について。
私は書物を究極のリモートメディアだとおもっているです。よく言う例だと、アッシュールバニパルの宮廷図書館の楔形文字の文書を、現代日本にいる我々は街の図書館で、その一部を読むことができる。それくらい時空を越えたメディアである、と。私が書いた言葉だと『同じ本を読む者は遠くにいる」となります。
そして会読は、直に集まるという、フェイストゥフェイスの、最も近いコミュニケーションを、この最もリモートなメディア/コミュニケーションに交差させることです。これで何も起こらない訳がない!
SNSが分からないというのは、私がインターネット老人会に属するような、古いネットユーザーであるからです。私がネットを始めた頃、同じ本を読む者のように、ネットユーザーはみな遠くにいました。誰もが携帯端末を持っている訳でなく、ネットは特別な装置を用意してわざわざ始めるものだった。
その距離感を、私はもうこの世にいない書き手が残した書物を読むようなものか、と一種のアナロギーで理解しました。
だから、自分が本を読んできた著者から、Twitter上でリプライが飛んできたりすると、ひどく混乱します(笑)。
私が「読書猿」という名前の向こうにいて、皆様に姿を見せられないのは、こうした理由もあるのです。



要望:Kindle版独学大全にも紙版同様のの目次を付けてほしいです。いきなり本文から始まる構成は何気に使いづらいと感じました。


→ Kindle版にも目次、もちろん付いてます!紙と同じ構造で、序文のあとに目次があります。
なお、索引のリンクもされましたので、もし旧バージョンをお使いでしたらご参考にされてください。
https://twitter.com/dokugakutaizen/status/1367036145083711493?s=21