いつも参加しておきながらあまりブログを書かない性分でしたが、備忘録や整理としても使いたいなと思いまして、初めて書こうかと思います。
(サポのリーダーなのに初めてなのは気にしないで欲しい)


深い河のあおり文は下記(ここを読むの、結構好きです)

喪失感をそれぞれに抱え、インドへの旅をともにする人々。生と死、善と悪が共存する混沌とした世界で、生きるもののすべてを受け止め包み込み、母なる河ガンジスは流れていく。本当の愛。それぞれの信じる神。生きること、生かされていることの意味。読む者の心に深く問いかける、第35回毎日芸術賞受賞作。

人は皆、それぞれの辛さを背負い、生きる。
そのすべてを包み込み、母なる河は流れていく。

死生観、宗教観に問いかける名著

本当の愛、生きることの意味を問う、遠藤文学の集大成!



との事。

・久しぶりの遠藤周作でした。遠藤周作というと「沈黙する神」というイメージのみが頭に残っていた状態での読書。まず読んでいて感じたのが

「う~ん、ツアー客のバックグラウンド書くの上手いな~」

という物。磯辺から始まって美津子や沼田といった面々が何を抱えてはるばるインドくんだりまで訪れる事になったのか、それがとてもよく書かれているなと感じた次第です。
「深い河」が遠藤周作自身の最晩年に書かれたものであることからでしょうか。重たい話だろうが込み入った話だろうが軽やかに書ける、これはさすがの筆致かなと思いました。
けして大きな分量を割いていないにも関わらず、一人ひとりが主人公の作品を書くことだって不可能ではないと思わせて来る、いやもう、こうまで上手に書けるならぜひ「三條の場合」の章が欲しかったところなんですがそれは叶わねえんだよな……絶対面白いと思うんだけど……


・僕の心の中に特によく残ったのは美津子と磯辺です。

磯辺の「妻の生まれ変わりを探す」という目的でのインド来訪は、それ自体が絶望的に不器用で滑稽です。ただ、それを往時の律儀なサラリーマン的な手法で詰めていく(生まれ変わり研究の権威に手紙を書いたり、ツアーに申し込んだり)姿にあるのは真摯さであって、それが非常に共感というか、哀憫というか、「もう"こう"としか生きられない姿」に迫るものがありました。挙句の果てによくわかんない地元民向けの店で酒をあおるんですから、インドまで来て新橋の赤ちょうちんから抜け出せてない感じ半端なかったです。


美津子は対極的で、"どうとでも"生きられるが、"こう"が見つからない人間です。磯辺は言ってしまえば「どこにでも居る」サラリーマンを疑問なく生きてきて、妻が死んで初めて"こう"に気づいて焦りだす形ですが、美津子はまず社会に用意された"こう"に全然馴染めない人のように思えました。
"大学のマドンナ"的な役割まではなんとかこなせたけど、妻とか、母にはなれなかった。
そして学生時代に弄び見下した大津、どこに行っても異端扱いされるダメな神父の事が忘れられない所に"こう"生きている人への強烈な執着を読み取れました。

(ただ、大津に"こう"を与える=大津を今の姿へと再度産み落としたのは美津子なんですよね。しかも拒絶によって。そこがなんか深いと思った)

作中の”玉ねぎ"とか"愛"とは"こう"の極北なのかなと思うのですが、そこに救いを見出すわけでもなく、陳腐な表現ですが「何者にもなれない状態」で今まで生きてきた彼女への焦りでも諦念でもない、何か。それが面白かったです。
インドまで来たら"こう"が見つかるのか、いやまあ、見つかるほど甘い話じゃないんですけど。
(そして母なるものの表象とか、いっぱい深いテーマがありそう)


・伴走者としての神
読書会でのやり取りの中で、「ここには伴走者としての神が描かれているのではないか」という意見が出されました。僕はこれがとても面白いと感じました。

磯辺は結局、生まれ変わりの妻には会えませんし、美津子はガンジス河で沐浴してみましたが"こう"を見つけたわけでもありませんし、沼田も九官鳥をインドの森に離したからなんなんだよ、インパール作戦の木口もお経をあげたからどうしたんだよ、という話で要はどの人も「だからなんなんだよ」と言ってしまえばそれでおしまい。なのですが確実に変化している。
それぞれ直接的に神を指向したわけではなく、神によって救われたわけでもないですが、超自然的なもの、あるいは理屈をつけると陳腐になる物(生まれ変わり、身代わりになった鳥、人肉を食らってでも自分を助けてくれた友人、美津子の場合は大津でしょうか、そしてピューリッツアー賞……これは違うか……)を見つめなおして、何かの結論を自分で出しているわけです。

ここには背中を押しているような、近くで一緒に走ってくれたような、そういう神のイメージが浮かび上がってくるのではないか。誰が言ったのか覚えていないんですが(良くない)、この作品を読む上でとても参考になる意見かと思いました。ありがとうございます。

そこでタイトルに戻ると、「河」というのは一緒に走ってくれるような存在の象徴としては実にぴったりな感じを覚えました。ただし、あくまで河の方が大きく、こちらを気にしてくれるわけでもないし、後戻りをさせてくれるわけでもないですよね。それでいて分解していくと、どこまでも小さな水滴までさかのぼれる。うーん面白い。
「ツアー」というのもある種「河」的ですよね。全然違うバックグラウンドの人々が一つの流れに乗って刊行するわけですから。
(同じような比喩に「山」もあると思います。ただ、この作品のタイトルが『高い山』だと全然違う気もする。すごく一神教!    って感じになる)


こうやって書いていても『深い河』の表面もなぞれていない気がしますが、とにかく面白かったです。時間があったらまた遠藤周作の作品を読んでみたいと思いました。

なんかあれだなー、書いていると考えていた事と全然違う事書いてる気がするな……
また次、書いてみたいと思います。



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