小説の主人公は、福すしの看板娘である「ともよ」と、福すしの常連客である湊です。

    個人的に物語の最大の謎は、湊がともよに自らの過去を語った後、福すしを二度と訪れなかったところです。いろいろな読み方があって、そのどれが正解とも私には決めかねますが、読書会を終えて、私は、次のように思っています。
    湊は誰かと深い関係を結ぶことができない人間で、ともよと話をしたことによって、ともよとの距離が縮まっている、あるいはともよが近づいてこようとしていることを感じて、行方をくらましたのではないか。
    私がそう思うのは、湊はともよから声をかけられる前、ゴーストフィッシュを買っていること、そしてともよと話し終えた後、ゴーストフィッシュをともよに渡していることが理由です。最初から引っ越す具体的な予定があるなら、ゴーストフィッシュを買わなかったのではないか。ともよに話し終えた後、買ったばかりのゴーストフィッシュをともよに渡したのは、ともよと話をした後に、どこか別の町へ行こうと思ったからではないか。
    ちなみに、「鮨」を紹介する「世界最高の日本文学」という本では、湊が福すしを訪れなくなったのは先生が死んだからという推測も成り立つとあります。ゴーストフィッシュは「死」の暗示だと。

    湊がともよに自身の過去を語った直接のきっかけは、ともよが湊に「お鮨、本当にお好きなの」と尋ねたからです。それに対して湊は、「さあ」と答えます。「じゃあなぜ来て食べるの」と重ねて尋ねたともよに、湊は、「好きでないことはないさ、けど、さほど食べたくない時でも、鮨を食べるということが僕の慰みになるんだよ」と答え、さらにともよに「なぜ」と問われて、湊は過去を語り始めます。
    ともよの問は、ともよにとっては「どうしてお店に来るの。私のことが好きなの」という問だったのではないかという読み方を示された方がいて、なるほどと思いました。
    湊がともよのことをどう思っていたのか、はっきりしたことはわかりません。自らの過去を語ったのは、問われるがままに語るうち、思っていたよりも語りすぎてしまったのか、ともよの気持ちを察した時点でともよと離れることを決めて自分という人間が本質的に世界とつながれない人間なのだという話をしたのか・・・。

    湊にとって鮨が特別な食べ物であるからこそ福すしにも通い、ともよとも知り合ったわけですが、鮨が特別な食べ物になった理由は、食が細く、食べものを受け付けなかった子どものころの湊に母親が鮨を握ってくれたこと、それによって湊がものを食べられるようになったことです。
    個人的には、生魚というのはけっこう生臭いこともあるので、いくら清潔な道具を使って、自分の母親が握ってくれたとしても、子どもはやっぱり食べられない、むしろ一層ものを食べることを嫌悪する可能性もあったのではないかしらと思いました。母親が鮨を握って食べさせるという試みは、結果的には成功に終わったものの、大失敗する可能性もあったんじゃないかしらと。
    そういう疑問を出したところ、鮨の象徴するものについて、いろいろな見解をお聞きできました。
    鮨というのは手で握って手で受け取り、手で食べる、作り手と食べ手のつながりを感じるものなのではないかとか。
    鮨というのは普段は食べない特別感(イベント性)のある食べ物で、何かそういう特別な気持ちを感じてほしかったんじゃないかとか。
    実を言うと、母親が直接手で握ったものを食べさせるだけなら、鮨じゃなくておにぎりでもいいんじゃないかしらなんて思ったりもしていたのですが、鮨というのは握られたその場で、すぐに食べるしかない、その時限りの食べもので、人と人との関係性もその時その時のひと時の関係だという意識を象徴しているのではないかというご意見もあって、皆さまの読解に唸らされました。

    今日は読書会の後の懇親会にも参加できたのですが、ほかのテーブルでどんな話が出たのかお聞きするのも楽しかったです。
    読書会で、あるいは懇親会でご一緒した皆さま、どうもありがとうございました。