この長編をかなり夢中になって読み終わった後、すぐさまムーミンの登場人物たちに再会したく、シリーズ1作目の『ムーミン谷の彗星』と、前回のムーミンの読書会で初心者におすすめと言われた『ムーミン谷の仲間たち』を読み、大いにヤンソンの描く世界に耽溺した。

全体の印象として:ムーミンの世界から感じてしまう、日常に潜む不穏な空気や不安感と、自由意志のない機械論的人間像


本書のモランが、一見平穏に見える世界に不穏な予感をもたらし続ける存在であるとして解釈するならば、上記2作では彗星や飛行おにが本作のモランと同様に、日常に潜む不安感や不穏な空気を象徴的に示しているように感じられた(最終的には全て杞憂で終わるとはいえ)。

そして、「好きなように生きている登場人物が自然と居場所を見つける素敵な世界に魅了された」と僕が以前感想を書いた『ムーミン谷の仲間たち』と同様に、本作においても登場人物たちは各々が与えられたキャラクターに反せず、それぞれの性質の延長線上で銘々が行動しているように見えたが、この3作を続けて読んでみると、ムーミンの世界の登場人物は、まるで自由意志は実はなく、生まれながらの性質や環境によって思考や行動が左右されているかのようにも見える、ある種の機械論的な人間観としてのカリカチュアのように描かれているように感じてしまった。

上記の解釈はもちろん普遍的なものではないだろうけれども、少なくとも、ムーミンの原作は僕らのような「大人」である読者が接しても、現実世界と引き比べても、決して軽くはない様々な示唆を与える作品であることを今回も強く感じた。

典型的・誇張的な性差の描写?それとも。。。


本作を読んでいて自己嫌悪的につらかったのは、ムーミンパパの姿だった。本書において、日常生活をはからずも鬱々と送り、怒りを内部にため込むようにしてきたといった描写がなされているムーミンパパが、空想的ロマン主義に突き動かされるように衝動的な行動(島への移住から、釣りやら、湖の底さらいやら、海面の計測までの数々の思いつき)に打って出て、家族の皆が巻き込まれて少なからずも不幸な状態になってしまう点については、自らを振り返るに思い当たる節が多々ある僕自身としては、痛切な批判だった。(灯台に家族を連れ「ようこそわが家へ」と言うムーミンパパ的な痛々しい幼稚さを、僕は持っている。。。)

意図をしてるかどうかは別にせよ、仮にそれを男性の典型像として作者がカリカチュア的に描いているのであれば、これは典型的・誇張的な「男性性」の描写であり、男性の一員としてはムーミンパパの姿に僕はいたたまれない思いがした。同様に灯台守についても、批判をされない絶対安全領域に留まって、殻に閉じこもるがごとく孤独な生活を送る姿は、ムーミンパパとは違うアプローチによる”男性に典型な”自己中心的ロマンチシズムのように読めてしまい、居心地の悪い思いが僕としてはした。

作者のムーミンパパや灯台守の描き方は、典型的・誇張的な性差の描写のようにも感じられ、とはいえ全く根拠がない描き方ではなく、鋭い観察眼に基づいたものであるように思えるが、こうした理解をしていいかどうかについては、いろいろと議論があるだろうと読みながらもたびたび思った。すなわち、登場人物のある部分の性格や行動を、ジェンダーの違いからくる典型的姿として描いていると解釈していいのか、それともそれは男女の性差を過度に意識した”偏った”読み方であるのか。おそらく現代において”政治的に正しい”読み方は後者なのだろうけれども、僕としては”男性特有”の(いろいろと””としているところに僕としてもこのパートでの感想においてはさまざま留保をしているつもり)滑稽なマチズモを、ヤンソンは意図的・意図的でない問わず極めて”正確に”描いており、それが本作のムーミンパパの姿から居心地の悪さを読み手としての僕が感じる理由のように率直に思った。

ムーミンママやムーミンの「開かれた」共感力


本作におけるムーミンパパの姿を「滑稽なマチズモ」として捉えるとしたら、同様にムーミンママも典型的な母親像ないし女性像という紋切り型ジェンダーで解釈できるかといえば、ムーミンパパから感じた印象とは全く異なり、本作のムーミンママからはジェンダー論を超えたところにある、人としての得難い美質を僕としては感じた。

本作でもムーミンママの心優しい姿はいたるところで描かれているけれども、例えば下記のムーミンママの言葉に個人的にはとても心を動かされた。

「さあ、明日もまた、長い一日になるでしょうよ。しかも、はじめからおわりまで自分のものよ。とてもすてきなことじゃない!」


このエクスラメーションマークによって感嘆の言葉と理解されるムーミンママのセリフは、本作でのムーミンパパによる数々の感嘆符付きの感傷的な言葉の数々とは全く性質が異なるように思う。ムーミンパパのマチズモ&ロマンチシズムは、他人との共有を前提としたものでなく(事実、自身のロマンチシズムの投影の場である島において、ムーミンパパはムーミンママに全然仕事をやらせない)、よくて自らの独り言、悪くて独善的な一方的押し付けである。

一方で、上記のムーミンママの感慨は、誰もが持ちうる感興であり、開かれた言葉である。作者がこうした共感力の持ち方を女性特有のものとして描いているとはとても思えず、獲得することが得難いながらも普遍的な人間の美徳といっていい性質のもののように思える。

実際、男性であるムーミンもまた、この開かれた共感の持ち主という印象を与えるようだった。島の木々や植物たちに死を与える存在であるモラン、それほどまでに忌まわしい彼女に対して、ムーミンはなんと「自分がモランだったらと空想して」みるまでする。そして、「ムーミントロールは、世界中でいちばん孤独になりました。」と、モランの孤独さに思いをはせることまでをしている。

ミイが嗤う灯台守についても、ムーミンは次のような同情、というより灯台守の立場にたっての真摯で誠実な思いを寄せる。

ぜんぜん通りもしない船のために、灯台のあかりをつけるんだものなあ


また、少なくない読者が、僕のようにムーミンパパに対しては感傷主義による滑稽で迷惑な様々な騒動を起こす存在と感じるだろうけれども、ムーミンはあくまでムーミンパパの側に立つ。

もうここに来ちゃだめ。ここはパパの島なんだから!


とりわけ、ミイによる”虐殺”現場において、ムーミンが言葉にならない悔みを表す場面は、ムーミンの他者へのやさしさを思うと、一層痛切に感じられた。

ムーミントロールは、永久に自分だけのものになったあき地にすわりこんで、体中をはい回る灯油のにおいをかぎながら、体を前後にゆすぶっていました。


個人的な感銘:「美しさ」という概念への憧れを隠せないムーミン

ムーミンママやムーミンの「開かれた」共感力と並ぶくらい、本書で個人的に非常に感銘を受けた部分は、「美しさ」という概念への憧れを隠せないムーミンの姿だった。ムーミンは、カレンダーの中のうみうまの姿を見て、こう語りかける。

きみとぼくとは、似ているね。ぼくたちは、おたがいにわかりあえるんだ。ぼくたちは美しいものだけに心をひかれる。


「ぼくたちは美しいものだけに心をひかれる」という宣言のもと、自らの姿は必ずしも美しくないムーミンは、うみうまとの交流やそれへの想いを通じて、「美」に対する賛嘆を繰り返している。

ムーミントロールは、自分自身も美しいような気がしてきたのです。


月の光をごらんよ。なんてあったかいだろ。ぼく、飛べそうな気がするよ!


自分の見たうみうまのことではなくても、ただのうみうまのことを話すだけでもよかったのです


自分自身が目撃をしたうみうまでなく、うみうま一般という抽象度が上がった存在に対しても、それを語るだけでムーミンは幸福感を覚えている。「小さなうみうまがだまっていたのは、そんなことには関心がなかったからです。」と決定的なすれ違いが、うみうまとムーミンの間にあったとしても、ムーミンのうみうまが体現する美しさへの憧れは変わらない。

こうしたムーミンの姿は、いずれ遠くない将来に朽ちてしまう存在である人間が、音楽や絵画、建築、あるいは数式を通じて表現される「美」に対する憧れを持たざるをえないという、僕らの存在論的な姿を現しているように僕には解釈をされて、とりわけ印象に残った。

ーーー

読書会の対話は月並みな言い方で時間を忘れる楽しいひと時だった。特に、訳者の方と同部屋になった点は、原語でのニュアンスに基づいた解釈や、他の作品を踏まえた人物像の紹介をうかがえるなど、大変幸運な出来事だった。

解釈についても、うみうまへの感情をムーミンの性の目覚めとして捉える見方は、予想しなかったため個人的には驚くものだったけれど、うみうまが人魚としてではなく、馬として登場しているという指摘を聞いて、自分としても一つの見解として腹に落ちるところがあった。ふいに、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」が頭の中で鳴り、体の半分が獣身であるケンタウロスやパーンの姿を思った。