IV. 虚実が溶け合う舞台装置のたくらみ
歴史の重さ から少し離れて、今回は映画そのものの「仕掛け」の話です。舞台と現実が溶け合っていく演出のたくらみ、鏡を使った映像、そして誰もが息をのんだあのラストシーンについて。
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舞台と現実が重なり合う面白さ。
いくつか有名な演目があって、『覇王別姫』は四面楚歌の話ですよね。項羽が垓下で劉邦軍に囲まれてもう後がなくて、虞美人と一緒に死のうとするんだけど、虞美人が「私は足手まといにならないように自害します」という最後の宴の場面をやっているんですけど、私が特に好きな演目は、その少し前に出てくる楊貴妃がお酒に酔ってベロベロになる演目で。頭にジャラジャラ髪飾りをたくさんつけているのは大抵、楊貴妃なんです。ちょうど小楼が結婚してしまった直後で、蝶衣にとってはやけ酒みたいなシーンだったので、舞台でやっていることと現実世界がリンクしている感じが最初は面白くて、レスリーが綺麗だし素敵だなと思っていたんですけど、だんだんその「仕掛け」が見えてくるというか。自然発生的にそうなったんじゃなくて、制作側が意図してそうしているんだなと思ってくると……という話をしました。楊貴妃自体は、玄宗皇帝が別の女性(梅妃)に夢中になっていて、自分のところに通ってくれないから、それでやけ酒をする、というだけの話です。
鏡に映る、もうひとつの自分。
この鏡を使った撮り方、面白いなと思っていて。あのキモい人(袁四爺)が蝶衣の鏡の中に現れる場面が素晴らしかった。「生きた雉から抜きました」と羽飾りを見せる場面で、舞台が終わって髪を下ろして、ほっとしたプライベートな空間に現れるとキモいですよね。小四が京劇のメイクをして、宝飾とか磨いて悦に入ってるところが壁一面鏡で、紅衛兵がぞろぞろ入ってくるのが結構インパクトありました。なんで鏡をいっぱい使ってるのかっていうと、一つには観客席から見た舞台と、役者の視点から見た観客席みたいなのが一つの画面で収まるから鏡を使ってて。小四の一番最後の場面は、鏡が全面なので、舞台みたいに見えたのがちょっと面白かったです。
誰も見ていない場所で完結する二人だけの世界。
最後、二人が11年ぶりに一緒に舞台に立つリハーサルの時に、小楼が「前みたいにうまく演技できないな、俺は衰えたな」と言って、蝶衣に「お前は全然変わっていないな」と言うシーン、あれは何だったんでしょうね。あれ、幻想シーンかもしれないですね。原作だと、小楼の方は演劇の道からしばらく離れていて、蝶衣の方はまだ舞台を続けていた、という設定なんだそうです。その11年間、二人はどんな気持ちで生きてきたんだろう、と思いました。あんな文革のような体験をしたら相当なトラウマになるでしょうね。
皮肉なほど美しい幕切れ。
11年生きてきて、ようやく共演したところで命を絶つ。もう心は死んでいたんだけど、舞台の上で死にたかったんじゃないですかね。よくいるじゃないですか、年を取った人でも舞台に立った途端にシュッとする人。蝶衣もそういうタイプで、自分としては舞台の上で、あの役として死にたいと思っていたんじゃないかなと思います。しかも、あそこは観客がいない舞台で、見ているのは小楼だけ、というのも意図的な演出だったんでしょうね。観客が入っている舞台であれをやると、三島由紀夫みたいな話になってしまうけど、あえて小楼にだけ見せたかったんでしょうね。
『覇王別姫』の舞台上で一番の見せ場、虞美人が自刃するシーン。それこそ、二人が今まで生きてきた中で一番のクライマックスで、美しい場面だから、それを実際になぞる、再現するという皮肉が、悲しさというよりも、ある意味「ようやく舞台が揃った」というか、追い詰められてどうしようもないところで殉じていく美しさを、待っていたかのような感じ。皮肉だけど美しい。幸せな瞬間に最後を迎えるというのは、糖葫芦(サンザシ)を頬張って死ぬ子供のエピソードと重なりますよね。最期の瞬間に見た景色が、小楼の笑顔と、小楼の声。それも幸せな最後なのかもしれません。その時の蝶衣の表情を見ているのは小楼だけなんですよね、私たち観客には見えない。しかも「トウズ」と、昔の名前で呼んでいるんですよね。微笑んでいたのかな、笑っていたのかな、なんとも言えないですよね。あのとき、蝶衣は笑顔だったんじゃないか。うっすら笑った気がした、というのは僕も感じました。
今回、蝶衣にとっての一番の芸の真骨頂を、小楼に見せて覚えておいてほしい、みたいな。だから、あそこで命を絶つことが、一番、愛に殉じることなんですよね。愛に殉じるし、自分自身もそうしたかったんじゃないかな。
肌で感じる色と気温。
この映画に一つリクエストがあるとすれば、何か問題が起きて解消する、というのが割と反復するんですよね。それが積み重なっていって、最後に文革という大きなクライマックスが来る。文革のところは、それまでとは演出のトーンや重大さの描き方を変えると、もっと良かったのかなとちょっと思いました。あと、文革の場面で、燃やす前に並ばされて、火のジリジリ感が伝わってくるところとか、寒いところは本当に寒そうに見えたりとか、肉体感覚として理解できる感じがこの作品の魅力かなと思います。
全体を通して画面が赤っぽいのはなんでだろうと思うんですよ、北京が舞台のせいかと。レスリー・チャンの来月の映画(『欲望の翼』)はずっと画面が緑っぽいので、なんでこんなに違うのかなと。あちらは香港とフィリピンが舞台の映画なんですよね。温度感と関係あるんですかね。北京の寒い場面はずっと赤い色調が出ている気がします。『ラストエンペラー』はフィルターなどで時代ごとに色分けしていましたね。
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演出の仕掛けを見た目で楽しんだあとは、その技術を支える身体と声の話へ。次回は、演じ手の身体に宿る技への感嘆、宝塚との照らし合わせ、そして声とことばが運ぶもうひとつの意味について。


