ゴーゴリの「鼻」を読んだのは中学生くらいの頃だ。
なんとも奇妙奇天烈な話で「なんのこっちゃ?」というのが正直な読後感だったが、そのシュールさと滑稽さが妙に心に残った。
思えば、今の私がカフカの小説やらデヴィッド・リンチの映画やら、やたら奇妙で不可解な作品を偏愛するのも、この「鼻」に魅せられた少女時代が出発点だったのかもしれない。
歪んだ人間やグロテスクなユーモアが好きなんですよ、昔から。
 
さて、大人になってからこの「鼻」を読むと、ゴーゴリがこの作品に隠した意味を探り、いろいろと解釈したくなってくる。
豚のようにあちこちにクンクンと鼻を突っ込んで、地中のトリュフのごとく香り立つメタファや寓意の痕跡を探す……これぞ「読書」の醍醐味のひとつである。
途中から独自の謎解きに夢中になって、もはやゴーゴリが本当は何を言いたかったのかなどどうでもよくなり、ひたすら自分の仮説を組み立てていく。
どうせ作者は死んじゃってるから、どんな解釈をしようと自由自在だ。
というわけで、稚拙ながらも私なりの「鼻」解釈を、ここにご披露しようと思う。
 
まず、我々は、主人公のことをよく知らねばならない。
コワリョーフという名の37歳の八等官だ。
ちなみに「八等官」というのは、当時の帝政ロシアにおいては「上の下」くらいに位置する中級役人であるらしい。
階級は14段階あって、最高位が一等官、最低が十四等官。
一等官~八等官は「上級官」、九等官~十四等官は「下級官」とみなされた。
ゴーゴリの「外套」と「狂人日記」の主人公はいずれも九等官で、この「鼻」の主人公コワリョーフ君は八等官だから、前者は「下級役人の最高位」、後者は「上級役人の最下位」ってところか。
ただし、九等官と八等官の間には超えられない壁があり、平民はどんなに頑張っても九等官止まりだったという。
とはいえ、文中には「八等官といっても学校のお免状のおかげでその官等を獲得した者と、コーカサスあたりで成り上がった者とでは、まるで比べものにはならない」と書かれている。
要するに、きちんとした教育を受けて八等官になったエリート官僚(おそらく、そこそこの家の出身だろう)と、現場でゴリゴリと仕事して八等官の地位まで上り詰めた成り上がり官僚(家柄はあまり良くない)との2種類があって、前者エリートはこの先も五等官やら四等官へと出世する未来があるけれど、後者の成り上がり者にはこれが精一杯といったところなのだろう。
そして、我らがコワリョーフ君は、成り上がり組なのであった。
 
コワリョーフ君がやたらに自分の身分にこだわり、「少佐」などと自称して(じつのところ、八等官には少佐という称号が与えられない)悦に入ってる、その虚栄と屈託の入り交じった複雑な心情もわかる気がするではないか。
がむしゃらに這い上がって来た男だから、自分の官職に誇りを持ってはいるのだが、あらかじめ上級職が約束されたエリートお坊ちゃんにはかなわない。
うんうん、さぞかし忸怩たる想いを抱えて、今日まで生きて来たんだろうね。
 
そんなコワリョーフ君が、ある日突然、鼻を失くしてしまう。
顔の真ん中にあったはずの鼻が綺麗に消えて、そこだけツルツルになっているのだ。
しかも、である。
狼狽えながら街を徘徊していると、自分の「鼻」がなんと五等官の衣装を着けて、馬車からひらりと飛び降りて颯爽と歩いて行くではないか!
慌てて後を追って声をかけるが、「鼻」はコワリョーフ君など赤の他人といった風情で、けんもほろろに扱われる。
 
さて。
この「鼻」が、コワリョーフ君よりも身分の高い「五等官」であることに注目しよう。
何故、鼻がコワリョーフ君の顔から逃げ出し、人間のふりをして歩き回っているのか?
その謎を解くには、この「鼻」がコワリョーフ君より高位の役人の扮装をしている、という点が重要なのだ(と、私は思う)。
つまりだね、「鼻」はコワリョーフ君の「なりたかった自分」なのだよ。
八等官という己の身分に不満で、周囲のエリートお坊ちゃんたちを見ながら、「ああ、俺だってもっと良い家に生まれていれば(要するに「家ガチャ」ですね)、今頃、五等官くらいには出世して、洒落た羽根飾りの帽子なんぞ被ってたんだろうな。ええい、悔しい!」なんて歯ぎしりしてたんだろう。
そして、脳内で「五等官の俺様」像を作り出し、さながら湖面に映った己の姿に見とれるナルキッソスのように、その幻想の自己像にうっとりしてたに違いない。
 
わかる!わかるよ、コワリョーフ君!
私も若い頃、自分の顔も身体も大嫌いで、モデルみたいに美人でスタイルの良い自分を想像しては、「ああ、そんな風に生まれてたら、あんなドレスを着て、あんなイケメンと恋をして……」などと、風呂の中でひとりニタニタ笑ってたもんですよ。
うむ、我ながら気持ち悪い。
若気の至りだ、許しておくれ。
 
自分の現状に不満過ぎて、現実逃避ばかりしているコワリョーフ君は、いつしか己の分身とでもいうべき「もうひとりの自分」を脳内に生成し、そいつこそが本来の俺だと思い込もうとした。
ところが、その「もうひとりの自分」が、ある日、コワリョーフ君から分離して、別人みたいな顔して歩き回り始めたのだ。
鼻を失くしたコワリョーフ君の狼狽は、単に見た目の話ではなく、「自分だと思ってたものが自分ではなく、それどころか自分を見限って逃走し、勝手にひとり歩きを始めてしまった」ことによる狼狽なのである。
 
生身の自分と虚像の自分を混同し、いつの間にか虚像の方こそが本当の自分自身だと思い込んでしまった。
それが、コワリョーフ君の不幸の始まりである。
生身と虚像が何とか共存してるうちは良かったが、そのうち虚像は自分を嫌って、逃げ出してしまった。
無理もない、元々自己嫌悪の気持ちから虚像を作ったのだから、虚像が自分を嫌がるのは当然の成り行きだ。
必死で後を追って「君は俺だろ?戻って来いよ」と頼んでも、虚像は「俺はおまえじゃない」ときっぱり否定する。
これまた無理もない、確かに虚像はコワリョーフ自身では決してないのだから。
 
虚像を失ったコワリョーフ君は、アイデンティティの危機に陥る。
夢見ていた五等官クラスの自分ではなく、何の取り柄もない成り上がり八等官の自分に戻ってしまうのは、彼にとって何より恐ろしいことなのだ。
このままじゃ恥ずかしくて道も歩けない、友人知人たちにもどのツラ(←文字どおり)下げて会えばいいのか。
警察にも頼れないし、新聞広告を出そうとしても断られる。
「私の脳内の虚像が逃げ出しました」などという訴えを、誰が本気にしてくれるだろう。
 
そう、これは、自分を否定し続け、現実から目を背け続けた男の、なんとも滑稽な「自己喪失」の物語なのだ。
ゴーゴリは「鼻」の前年に発表した「狂人日記」でも、冴えない中年の九等官という生身の自分を受け容れられず、脳内の自分像(虚像)と現実の自分像とのギャップに傷ついた末に、ついに気が狂って己をスペイン国王だと思い込んでしまう哀しい男の「自己喪失」を描いた。
「鼻」は、その延長線上にある物語である。
ただし、「狂人日記」と違って、この物語は奇妙なハッピーエンドを迎える。

逃亡した鼻が、何故か突然、戻って来るのだ。
が、戻ってきた鼻は、なかなかコワリョーフ君の顔にくっついてくれない。
無理もなかろう。
一度手放した自分は、そう易々とはアイデンティティに組み込めないものなのだ。
とはいえ、ついに鼻も観念したのか、ある日突然、元の場所にくっついてくれる。

こうして鼻(虚像)を取り戻したコワリョーフ君は、何事もなかったように日常に戻り、女を片っ端から追いかけ回したり、持ってもいない勲章をぶら下げるためのリボンを買い求めてみたりして、相変わらずの欲望と虚栄に身を投じる。
親愛なるコワリョーフ君は、この突拍子もない事件から、何ひとつ学ばなかったようだ。
まぁ、世の中、そんなもんだろう。
こうやって彼は死ぬまで自己を欺き続けるのだろうが、それは何も彼に限ったことではなく、我々の多くが己の鼻を大事に大事に撫でながら、幸福な夢に浸って生きていくのだ。
 
というわけで、これが私の大まかな「鼻」解釈なのであるが。
じつは、もうひとつ、重大な謎が解かれずに残っている。
冒頭の、あの衝撃的なシーンだ。
コワリョーフ君の鼻は、何故、理髪師イワン・ヤーコウレヴィッチのパンの中に入っていたのか?
そもそも、イワン・ヤーコウレヴィッチとは何者なのか?
これが私の読みどおり、虚像と実像の乖離、自己喪失の物語なのであれば、冒頭の焼きたてパンから鼻が出現するシーンには、どんな寓意が隠されているのか?
 
奥さんの尻に敷かれっぱなしのダメ男イワン・ヤーコウレヴィッチは、おそらくコワリョーフ君にとって取るに足らない最下層の庶民であろう。
だらしなくて惨めで小心者の酒飲みで、コワリョーフ君の理想とは対極の存在だ。
そんな男のパンの中に、コワリョーフ君の虚像が紛れ込む必然性は、ひとつしか考えられない。
イワン・ヤーコウレヴィッチもまた、コワリョーフ君の分身だからだ。
立派な身なりの五等官の鼻と違って、きわめて不本意な「負の分身」。
コワリョーフ君がもし頑張って八等官に出世してなかったら、彼はイワン・ヤーコウレヴィッチになっていたかもしれない。
横柄な女房に鼻であしらわれ、警官には居丈高に振る舞われ、だけど無駄な虚栄心や自惚れとは無縁で、淡々と庶民の生活を全うする。
ある意味、彼は、別の世界線のコワリョーフ君なのだ。
 
偽りの自分を夢見て果てしなく自己喪失していくコワリョーフ君と、等身大の自分に不満を持つこともなく背伸びもせずに生きるイワン・ヤーコウレヴィッチ。
どちらがいいのかは、わからない。
ただわかるのは、イワン・ヤーコウレヴィッチは決して、自分の鼻に逃げられたりはしないってことだ。

コワリョーフ君の鼻が彼のパンの中に身を隠していたのは、もしかすると、イワン・ヤーコウレヴィッチの鼻になりたかったからかもしれない。
確かに、イワン・ヤーコウレヴィッチの鼻は、持ち主から過分な夢や期待をかけられることもなく、単なる鼻でいられるだろう。

コワリョーフ君の「誇大我」である鼻にいきなり転がり込まれたイワン・ヤーコウレヴィッチは、当然ながらそれを持て余し、どこかに捨てようと画策する。
そう、イワン・ヤーコウレヴィッチのような人間にとっては、自分の実像以上のナルシシスティックな虚像など、持ってても面倒なだけの厄介なお荷物に他ならないわけだ。
彼に呼吸器以外の鼻など必要ない。
自分以外の自分など考えたこともない。
ああ、幸福なイワン・ヤーコウレヴィッチ!
 
ゴーゴリはコワリョーフを嗤いつつも、おそらくイワン・ヤーコウレヴィッチには到底なれない自分に、ほんの少し悲しさを感じていたんじゃないだろうか。
「狂人日記」の主人公ポプリシチンも、「鼻」のコワーリョフも、おそらくはゴーゴリ自身なのだ。
作家なんかになるやつは、みんな承認欲求の塊だからね。
これはゴーゴリの自虐の自画像。
哀れで滑稽な自分への鎮魂歌だ。
そう考えると、ちょっと切ない気分になる私なのであった。

うん、やっぱりゴーゴリ、好きだ!

追記
読書会で「持ってもいない勲章をぶら下げるためのリボンを買う見栄っ張りのコワリョーフは、分不相応なシャネルを買い漁って何者かになった気でいた私と同じだ」と言ったところ、くろろ君が「じゃあ、うさぎさんのそのシャネルがゴーゴリの『外套』に繋がるんですね」と返してくれて、「おおーー!」となった。

確かにそうだ!
私が初めて買ったシャネルは革のコート(外套)だったし!

こういう発見をさせてくれるから、読書会は素晴らしい。
他者の視点は暗夜を照らす灯火である。