2026年8月4日、第2回猫町シネマはチェン・カイコー監督『覇王別姫』(1993年)を課題作に、感想会を開きました。当日の懇親会で交わされた言葉を、なるべくそのままの形で載せています。全6回、まずは「役に呑まれる人々」から。
I. 「そうならざるを得ない」生き方のやるせなさ ― 役に呑まれる人々
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蝶衣と小楼の対比。
蝶衣が最初から、こういう女形としてしか生きられなさそうな感じで登場してきて、そのまま非常に魅力的で、その後の姿も当然魅力的なんですけど。一方で小楼は普通の人間で、家に帰ってご飯を食べて……というような、普通の生活ができない蝶衣とは違う、という対比があって。蝶衣がすごいというよりは、そういう生き方しかできない人になってしまっている、という話も出ました。
小楼への評価をめぐって。
男気があるんじゃないですかね。惚れていく、というか。自分の身を捨てても守ってやる、みたいな。『トム・ソーヤー』を思い出したんですよ。女の子をかばって、女の子に惚れられる、罪をかぶる、みたいなシーンがありましたよね。もちろん愚かな面もあると思うんですけど、良いだけでも悪いだけでもなく、いろんな面がある。
大人になって見直してすごく小楼に惹かれました。1回目に観た時はクズ男だと思ったんですけど。子供時代の小楼(当時の石頭)はよく泣くんですよ。大人になってからは泣かないんだけど、泣く場面は自分のためじゃなくて、蝶衣のために泣くんですよね。彼をかばう時や、彼が脱走する時とか。彼が彼らしくいられるのは、弱い人を助けている時。本当は自分が救われたかったのかもしれないけど、弱さを見せることは許されないから。要は「覇王」という役でしか生きられないような人で、蝶衣を助けたり、泣きながら蝶衣の口にキセルを突っ込んで女役をやらせたり。ところが大人になると、劇の中でしか英雄になれなくて、現実では遊郭の女(菊仙)を助けることで「覇王」になることができる。それでしか生きられない人。逆に菊仙がしっかりした生活力のある女性になった時は、彼はぼーっとして正気を失い、コオロギにはまったりスイカを売ったりする。彼はもう「覇王」としてしか生きたくない人なのかな、少し病んでいるのかなと思いました。でも私は病んでいる方が好きなんです。「女をダメにする男」の典型ですよね。
いい男というより、いい面があるから離れられない、という部分があるんじゃないかな。もし本当に完璧だったら、あんなふうにはならなかったと思うので。
小楼役の俳優さんも、初めて観た時は演技の上手い人だと全然思っていなかったんですけど、2回目に観たら実は細かい芝居をしているんだなといろいろ思いました。ちゃんと演技しているんだなと思って。
演技することが目的の蝶衣、手段としての小楼。
蝶衣というのは、演技することそのものが目的の人に見えるんですよね。演技のためなら何でも許容する。小楼は、演技によっていろんなものが手に入る、維持できる、という手段としての演技。そこで生き方が分かれているのかな。でも結局は、小楼も演じることでしか生きられないところがあるのかも。「現実は厳しいから、芝居をすることでやっと息ができる」みたいな人っているんですよ。
小楼って政治のことを結構語るんですけど、口では語るだけで実際には何もしない。でも世話をよくするんですよ。子供時代、仲間が脱走して劇がぐちゃぐちゃになった時も、レンガ割りの芸でみんなを助けたりしましたよね。
体罰=「あの時代なりの愛」という見方。
暴力ってどう考えればいいんだろう。単純に「あの時代はダメだった」というのではなくて、あの時代なりの愛だった、という見方もできるのかな。もちろん今やったらアウトですけど。
私、小さい頃にちょっとだけ剣道を習っていたことがあって、竹刀でお尻を叩かれていましたよ。当時は当たり前のようにやられていました。あれめちゃくちゃ痛いんですよね。防具のないところを叩かれるので、そのときのことは一生忘れられないですね。「愛じゃねえな」って思う時もあるし、逆に「覚えるために叩く」というのも、痛みで刻みつけるという意味ではありなのかな、竹の物差しで手を叩かれた記憶もあります。
蝶衣が足を開脚させられて、一番小さい子で、泣きながら開脚させられているところとか、本当に見ていて辛かったです。今だったら児童虐待ですよね。あと、石頭(小楼)が蝶衣をかばってレンガを蹴っ飛ばして、後で体罰を受けて雪の中で盥を持たされるシーンもありましたよね。ああいうのを描かないと嘘になる、と思っていた作り手がいたんでしょうね。虐待も性的な接待も、本当にあったことだから入れないと。
名前と、拾われた子が背負うもの。
小四が家出する場面で、「シャオスー」って呼んでいなくて「スー」って呼んでいたんですけど、「シャオ」ってどういう意味なんですか。──愛称というか、「ちゃん」みたいな感じで、普通に子供の名前の前につけたりするので、本名がどうなのかは分からないんですが。──拾われた子だから、そのときの経緯を含めた呼び方なのかなと勝手に思って聞いていました。「シャオ」がつかないときもあって、「トウズ」と呼ばれたときもあったし、「石頭」君もそうだったので、大人になったら「シャオ」はつかないんですか。──基本的にはつかないと思います。──一番最後、本当に最後の場面で小楼が蝶衣を子供の頃の名前で呼ぶんですよね。──最後、言っていましたね。それも印象的でした。
母を否定しながら母になる者、その母に背く娘。
子供たちを集めた劇団って、みんな孤児なんですかね。売られてきた子もいれば、帰る家がある子もいるみたいですね。解散する時に帰る家がある人と、「帰る家がないんです」と言って残っていた子(小四)がいましたよね。それを見て蝶衣が「母親」になっていくんですよね。母さんに手紙を書かせていましたよね、金魚の場面で。「母さんへ、小楼と今、稽古をしています」みたいな手紙があって、その手紙を蝶衣が焼いてしまうんですけど、劇場主が「ヒロインは手紙を燃やすものです」みたいなことを言って。手紙や衣装を燃やす場面が3回くらい繰り返されました。最初は母にもらった服を焼いていましたよね。衣装を燃やすカットと、文革の場面で燃やすカットがちょっと重なるんですよ。
蝶衣が「母」のような存在になっていく一方で、蝶衣自身は「娼婦・母的な存在」というものをどこかで否定していて、でも自分は性的な接待に巻き込まれてしまうし、子供を拾って育てている、母になろうとしている感じがして、同族嫌悪のようなものがあるのかも。自分の「娘」である小四に、自分の大事な役を奪われて。娘は母の言いなりにならず、母に反旗を翻してなんぼ、という物語にもなるのかな。イプセンの『人形の家』の母娘関係にも通じますね。小四は文革に加わるけど、京劇そのものには心を奪われているというか、蝶衣から奪ったアクセサリーをうっとりと見つめていたら、なんか追っ手が来ちゃいますよね。なんかすごい、軸がブレブレだなと思って。文革に加わって楽しそうにスキップとかして可愛かったんですけど。
溺れることでしか逃げられない弱さ。
レスリーがアヘンでラリッている場面もすごく好きでした。金魚のシーンとか。あそこ、色っぽくて好きでした。ああいう役、80年代の香港映画によく出てきますよね。──レスリーは常にああいう役が似合ってます。──前に参加者の方が事前のブログで、「蝶衣にとっては全てが京劇に集約されてしまっていて、仕事も振る舞いも全部そこに繋がっている」と書かれていましたけど、鳥を飼うとか、そういう他の趣味があったら別だったんでしょうけど、何もないから弱さが描けなくて、それでアヘンを出してきたのかな。アヘンに溺れて、そこからの禁断症状を経て小楼や菊仙に救われるというのは、この映画のいわば「お客さんへのサービスショット」的な要素もあったんじゃないか。原作にもあったかもしれませんが、ちょっとあざといな、とも。
袁四爺という存在の面白さ。
あの先生が蝶衣に女形のメイクをさせた上で、おそらくセックスを求めた、という演出がありましたよね。あそこ、すごく胸を打たれて。蝶衣の気持ちも切ないし、先生の方も蝶衣を虞美人に見立てているんだなと思うと、その先生もなんだか切ないなと感じました。先生の気持ちになってみると、やっぱり蝶衣のことを、その人なりに好きだったんだろうな、と。「自分を好きなんじゃなくて、自分をあの人の代わりだと思っているんだろうな」って。
この映画って、中国では同性愛を描くことが禁じられている中で作られているので、正面からはあまり描かない。あの人、すごくキモい演技をしていましたよね。蝶衣がメイクを落として髪を下ろしている時に、鏡の中にニューッと現れるとか、唇をこう撫でるとか。コン・リーの旦那さん役(『活きる』)のときはそんなことないんです、普通なんです。あのパトロンのキモい人、袁四爺という人ですけど、モデルは中華民国の大総統・袁世凱の子供、という設定らしいですね。だから最終的に処刑されるんでしょうけど。悪役って感じがしなくて、隠しきれない下心の演技が素晴らしい。本当の笑顔で笑っていましたよね。あの人しつこいんだけど、「俺のものになろうと思えよ」と蝶衣に言っていたと思います、心の中で。お金の力ででも。蝶衣があそこで涙を流す場面がポスターになっていますね。
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蝶衣と小楼、それぞれの「そうならざるを得なさ」をめぐる話は、まだ続きます。次回は、この二人と菊仙、3人の関係が語られないからこそ深まっていく様子、そしてその絆が崩れていく切なさについて。


