2026年9月8日、ウォン・カーウァイ監督、レスリー・チャン主演『欲望の翼』(1990年)の映画感想会を行いました。

主人公ヨディの母親の正体から『花様年華』とのつながり、なぜヨディのような男がモテるのか、さらには寅さんとの共通点まで、映画からあちこちへ話が転がっていきました。



「あのお母さん、本当に実母なんでしょうか」


終盤でレスリー・チャン演じるヨディの前に現れる母親らしき人の横顔について、そんな声が上がりました。衣装もメイクも、どこか現実離れしていて、これはヨディの頭の中にしかいない母親像なのではないか……そう思わせるビジュアルだったというのです。去っていく背中に、ヨディが呟きます。「背中に視線を感じる」「でも俺は振り返らない」「お前が顔を見せてくれないから俺も見せないんだ」。あのシーンは客観的な描写ではなく、ヨディの主観の中だけで起きていたことなのかもしれません。

そこから、「映画の最後まで、一人称とか二人称が不確かな文体なんですよね、映画全体が」という話になりました。レスリー・チャンが画面にいる間は彼の物語のように見えて、彼がいなくなると、いつの間にか群像劇になっている。ヨディがいなくなっても、それぞれの欲望の物語は続いていきます。ヨディの死後、唐突に始まるトニー・レオンの場面もそうでした。

「トニー・レオンの部屋、頭がぶつかるほど狭かったですよね……九龍城って本当にあんなに狭かったんでしょうか。香港の方に聞いてみたい」という素朴な疑問。それが同じウォン・カーウァイ監督の『花様年華』の話へとつながっていきます。同じ60年代の香港を描き、あちらも石畳の地面が続く、あまり過密感のない街並みだったという指摘。実はこの映画のパート2的な位置づけが『花様年華』らしい、という情報も交わされました。 

「私は『花様年華』は『欲望の翼』の続編だと思ってます」


映画の分からなさは、この一言でさらに転がります。マギー・チャン演じる「スー・リーチェン」という役名が両作品で同じであること。レスリー・チャンを失ったスーが、やがて屋根裏部屋にいたトニー・レオンと恋に落ちる――もちろん、ウォン・カーウァイ本人がそう言ったわけではありません。あくまで、心の中で勝手に育った物語です。
でも、全登場人物が片想いでつながっているという指摘や、『花様年華』も『2046』も、結局は届かない愛の話だという読みには、うなずく人もいました。

「余白があるんですよね」

今の映画は何でも説明しすぎる。だからこそ、この映画の説明しなさが心地いい。描かれていない部分を、自分なりに埋めながら観る楽しさがある。

「余白が白じゃなくて緑」

木々や雨の風景まで、語られなかった関係性を受け止める余白になっている。そんな話へと広がっていきました。 

 「レスリー・チャンがモテるというのが、僕には全然リアリティがないんですけど」


しかし、この夜の話が一番盛り上がったのが、ヨディの「モテ」について。「格好よくて肌がつるつるだったら、クズ男でもモテるんでしょうか」。素朴な問いに、女性から次々と反論とも共感ともつかない声が飛びます。色っぽすぎる。捉えどころのない男だから惹かれる。「あ、これは誰のものにもならない男だな」と分かった瞬間、逆に欲しくなる。簡単に落ちる男には興味が持てない。いつも攻略不能な「クソゲーみたいな男」ばかり好きになる女友達がいて、「もうこれ攻略無理だろ」と言いながら結局その男を好きになる。手に入れた自分に手柄感があるんじゃないか、という指摘も出ました。誰のものにもならないと分かっているからこそ、つかんでおきたくなる。その感覚が、映画の中のヨディにも重なります。

「成約率は低いんだけど、母数が多い」。カメラに映らないところには、ヨディが効かない女性もいるはず。だから実際にはそこまでモテているわけではなく、単に対象の数が多いだけなのでは、という冷静な一言に、テーブルが笑いに包まれました。母性本能というより、「自分がこの人の闇を癒せるんじゃないか」と思わせる魅力なのではないか、という見立ても出ました。オスカー・ワイルドの、男はいつも最初の恋人になりたがり、女はいつも最後の恋人になりたがる、という言葉も引かれ、「最後に選ばれる女でいたい」という願望が語られました。病んでいる時のほうがモテた、というモテ期の実例まで飛び出し、「病んでないと恋愛できない説」に、うなずく人もありました。ひとしきり盛り上がったところで、誰かがぽつりと、 

「ヨディは鑑賞用に限る。」


惹かれるのは分かる。でも実際に付き合うと、本当にめんどくさい。「足のない鳥は飛び続けて着地しない」というセリフの出典を調べたら、テネシー・ウィリアムズの戯曲『地獄のオルフェウス』の言葉だと分かった、という報告もありました。『欲望という名の電車』の作者で、本人自身も相当こじらせた人だったそうです。「こじらせた男は好きかもしれない。でも、もう本当に付き合うとめんどくさいからやめてます」という一言に、何人もが頷いていました。

『さらば、わが愛/覇王別姫』のレスリー・チャンも、現実に横にいたらどうだったんだろう――そんな想像から、話はこの人物を演じた俳優自身へと向かいました。健康な人だけの世界は、本当は不健康な世界なのかもしれない。今の俳優には、こういう「危うさ」を演じられる人が少なくなっているのでは、という感想もあり、「こういう俳優さん、コンプライアンス的に今生きるのが難しいかもしれませんね」という一言が、妙に納得感を持って響いていました。『国宝』で吉沢亮が演じた役も、相当なクズだけど誰のものにもならなさそうな魅力があったよね、という声も添えられました。

映画そのものの話は、こうして俳優への想像へ、さらには次の猫町シネマに何を取り上げるかという話へと、気づけば脱線を重ねながら流れていきました。男はつらいよの寅さんや007のように作品数の多いシリーズは、何かテーマを決めないと課題作品に選びにくい。そこで偶然始まったのが、寅さんとレスリー・チャンの共通点探しです。寅さんもまた実母に捨てられ、育ての母を慕っていた人物だとNHKのドラマで描かれていたと知って、「もうヨディじゃないですか、それ」と誰かが声を上げました。人と仲良くなるのは得意なのに、関係を続けられない。着地しない、足のない鳥のような人物という点でも、二人は重なっていました。

そして、次回の課題映画が発表されました。1999年の香港映画『流星』。 今回、危うい男として語られ続けたレスリー・チャンが、今度は父親役を演じる作品です。チャップリンの『キッド』へのオマージュもあるそうで、同じ俳優が、今度はどんな顔を見せてくれるのか。見た人は少ないので、これから観る楽しみが残っています。 

映画感想会には独特のゆるい空気があります。今夜生まれた「寅さんとレスリー・チャンはモテ男つながり?」という発見も、そんな誰かの発言から始まったものでした。ひとつの映画をきっかけに、思いもよらない方向へ話が転がっていく。そんな面白さを感じました。