谷崎潤一郎の「鍵」は妻を別の男に近付ける話である。

 酔って風呂場で気を失った全裸の妻を寝室に運ばせる。妻の裸を撮影したフィルムの現像、焼き付けを頼む。そのことを細かに日記に書き、それを妻が読むことも知っている。妻も夫が読むことを分かっていて、同じように日記を書く。妻は夫の期待通り男と関係する。

 なぜ夫はこんなことをするのか。自らの嫉妬心をあおり、それによって衰えた性的能力を高め、妻の期待に応えるためだ。夫婦が夫婦であろうとするために、妻を他の男に差し出すのである。性愛の不思議がそこにある。

 さて倉橋由美子の「夢の浮橋」である。主人公の桂子、耕一の親夫婦2組は、お互いのパートナーを取り替える夫婦交換を続けている。自分の配偶者が他の男(女)と関係を持つのだから、「鍵」と同様に「嫉妬」がキーワードになるはずだが、「夢の浮橋」ではそれがうかがえない。桂子、耕一らも同じように夫婦交換をしようとするのだが、子供の世代はそうした意識がさらに希薄だ。

 耕一の父と桂子の母は駆け落ちした過去がある。ある意味「正常な」カップルかもしれない。一方、耕一の母(正確には継母)も、パートナーである桂子の父を愛し、夫とは関係を持っていない。

 そもそも同じ相手と10年も関係を続ければ、夫婦も同然である。その意味で、この4人は夫婦交換というより、元々の夫婦関係がねじれていただけなのだ。

 「鍵」は性愛を真正面からとらえた作品といえる。「寝取られ」の本質を嫉妬、つまり「愛」と受けとめた。一方、「夢の浮橋」は夫婦交換を、愛し合う2人が「性」の歓びを味わうための舞台として描いた。つまり恋愛小説である。夫婦交換は便法でしかない。緊縛や「金色の雨」といったシーンが出てくる「夢の浮橋」だが、「鍵」には性交渉の描写がない。その意味でも対照的な2作品なのである。

 「夢の浮橋」で、桂子の母は耕一の父との関係の一方、夫とも性生活を続けていた。夫は妻を抱くときに、他の男と関係を持つ妻の姿を思い浮かべて、嫉妬することはなかったのだろうか。谷崎ならどう書いただろうか。