昨日は、トリコ組オンラインオープニングイベント    ゲスト上野千鶴子/鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』に参加しました。
トリコ組オンラインサポの皆様、ありがとうございました!
とても楽しかったです。
(ムーミン読書会100人でオタオタしていた身としては180人…震えます。すごい。)

この本を読むまで、フェミニズムという問題は私にはあまり関係ない事柄だと思っていました。
今回この読書会に参加したきっかけも、なんだかラウンジが盛り上がっているし
トリコ組オンラインの皆さんも頑張っているし応援したいな〜
ちょっと読んでみようかな?と言う軽いものでした。

しかし、往復書簡を読み終えてわかったことは自分はフェミニズム問題の当事者である、ということです。
私が無関心だったのは女性たちの中に馴染めないと感じることはあっても、社会生活において女性だからと不利益を被った、とは感じてこなかったからです。
でも読み進むにつれて、自分が過去に仕方がないことだとやり過ごしてきた不利益や心無い一言や出来事が次から次へと浮かんできました。

参加前は、この読書会は気をつけないと自分語りになってしまいそうだから、
自分が感じた疑問やフェミニズムについて話そう、と考えていましたが、フェミニズムは自分の人生に引きつけて「自分の話」として語ることで何かが見えてくるもので、むしろ自分語りの中でしか気づくことができないのではないか。
「女性は」「男性は」「この世代は」と大きな主語を使うことで問題に距離をとっている限りは決して近づけないものかもしれないと感じました。
(近づきたいか近づきたくないかは人それぞれだと思いますが。)
必要なことは分析ではなく「で、あなたはこれからどうするのか」ということでしょう。

さて、これからどうしようかな。と。

結論としては、まあそんな気負わなくていいんじゃない?
強がらず、自分の弱さを認め、周りの人たちと支え合って生きていこう。と言うところなのですが、せっかくなので自分について語ることを憚らないように気をつけながら思うままに感想を書いていきたいと思います。

📚

まずはじめにこの本を読んで感じていたことは「男」「女」という括りがどれだけ雑だろうかということです。

そして、フェミニズムが弱者の救済であるのであれば、弱者とは誰のことなのだろうか。

フェミニズムの先にある自由とは何だろう?

フェミニズムが弱者を尊重するものであり、強がらず、弱さを認め、支え合って生きることを提唱するならば、フェミニズムは恋愛関係や結婚を排斥するものではなく、より豊かな関係をもたらすものだと思うのだけど、安易に手を出すと男女の断絶(あるいは女性同士の断絶)をもたらすのはなぜなのだろう。

男性陣の緊張した面持ちが興味深い読書会でした。

読みながら、所々「そんなことはないだろう」とか「この考えは極端だな」と感じる部分がありましたが、今回トークショーがあることもあって「相手の意見を否定しない」と言う猫町ルールを著者と著作にも適用して読みました。

上野千鶴子さんと鈴木涼美さんの意見を否定しない。
「どうして、上野さんはこう思うんだろう」
「鈴木涼美さんの価値観はどこにあるのか」
「どうして、私は違和感を感じるんだろう」
これがなかなか新しい読書体験でした。

上野千鶴子さんのことはフェミニズムの第一人者として存じ上げていましたが著作を読んだことはなく、鈴木涼美さんのことはこの本で初めて知りました。
最初は「女である」という概念を強く持つ二人のやりとりはなんだか遠い話でした。
二人の語る「女性」の中に自分が存在しないなと感じたからです。

鈴木涼美さんの語る男性の性的視線から逃れることのことのできない女性たち。
特に、鈴木涼美さんは同世代であることもあって彼女が「私たちの世代」というときに含まれているはずなのですが「ブルセラ世代の私たち」「援助交際ブーム、キャバクラブームの私たち」という言葉には「そんな世代(ブーム)があったのか・・・」と驚きしかありませんでした。
私の住んでいた町にブルセラショップがあったのか、それすらもよくわかりません。

また、上野千鶴子さんの語る「一人の女」として男性を求める女性としての彼女も不思議でした。
「私もひとりの女ですから」と、トークショーでも上野千鶴子さんはこの言葉を使っていました。

私は記憶の限りでは、自分でこの言葉を使ったことはありません。
学生時代、キラキラした女性たちを眺めてはなんだか自分とは違う生き物のように感じていました。
大人になってから、居酒屋で「ねぇ、あなた同じ女性としてどう思う?」と店のママに詰め寄られたときには激しい違和感を感じました。
「ひとりの人間である」とか「私はこう思う」と考えたことはあっても「ひとりの女である私はこう思う」と考えたことはなかったように思います。
「男に生まれていたらどんなに良かったか」と考えなかったことはありませんが、生物学的な性を否定するほどの根拠も持ち合わせていませんでしたし、歳を重ねるにつれて「適度に擬態する方がいい」という感覚も身につけ、なるほど化粧や服装を整えるのは楽しいといえば楽しいなと思うようにもなりましたが、それはあくまでも社会を逃げ延びる手段だったように思います。
読みながら、なぜそんなにも私は女であることを歓迎しないできたのだろうかということに疑問が湧きました。

男とは、女とは。
その自覚の強さと方向性は人それぞれ違っているし、それぞれの持つ「世間一般の考え方として望ましい男性像・女性像」といったものも違うように思います。
男でも女でもない性、というものもあります。
不用意に何かを言うと、そうではない人を傷つけかねないのではないかと言う気持ちからかそのそれぞれの考えと立ち位置を探っているうちに読書会の時間は終了し、なかなか深い話に辿り着くところまで行きませんでした。
自分自身、どこか構えて喋っていたような気もします。


読書会でも話題に登ったのですが、最も心に深く刺さったのは上野千鶴子さんの弱さへの言及です。

「被害者」を名のることは、弱さの証ではなく、強さの証です。

迂回路を辿るのはお辞めなさい。他人のことを心配する前に、あなたはあなた自身の「尊厳」を守るべきなのだし、あなたに「向けられる刃物」に耐える必要なんてないのです。

ご自身の傷に向き合いなさい。痛いものは痛い、とおっしゃい。ひとの尊厳はそこから始まります。自分に正直であること、自分をごまかさないこと。その自分の経験や感覚を信じ尊重できない人間が、他人の経験や感覚を信じ尊重できる話がないのです。


この部分を読んで、こんなふうに誰かに言われてみたかったなと思いました。
弱さを認めない。
頭で理屈を構築し問題に向き合うことを避ける。
この上野千鶴子さんからの真っ直ぐな問いかけに対して、答えているようで答えずに逃げる鈴木涼美さんの文章が非常に巧みで「あ、この人は何かから自分を守っているのか」と気づいてから鈴木涼美さんは自分に近い何かに、上野千鶴子さんのメッセージは弱さを認められない自分への導きに変わっていきました。

私がフェミニズムは私には関係ないことだと思っていたというのは本書の中でエリート女性がしばしば陥りがちなメンタリティと書かれている弱さ嫌悪だと思います。

学生時代も会社に入ってからも男性ばかりの中に少数派の女性として存在することが多かったので、やり過ごす方法としてオタサーの姫のような女性としての希少価値を出す方法ではなく、男の中に馴染んでしまう方法をとってきたこともフェミニズムの問題から距離を取らせました。
揶揄されている男の視点というものを自分が持っていたからでしょう。
派遣社員の仕事ぶりに不満を感じながらもまあ可愛いからいいか・・・と女性を外見で判断するということを自分が行ったこともあります。
批判しながら批判されるというのは難しいものです。

新卒で入社した会社の配属された部署には「女性はどうせ腰掛けでしょと」言う雰囲気が漂っていましたが、その後は運よくダイバーシティの考え方の進んだ人事制度の整った会社に移れたので、その後は女性だから昇進できないとも感じることなくジーンズとスニーカーで働いていました。
フェミニズムを意識しないでこれたのは、すでに解決された後の場所にいたこともあります。
パンプスが嫌だ、ストッキングが嫌だという話を聞くと、分かるよ、という気持ちもありながら、どうして文句を言いながらその場所に留まっているの?とも感じていました。

(現在進行形で制服とパンプスに苦労させられている女性がおられましたらごめんなさい)


思い返せば、私の母は専業主婦でしたが、そこに何か思うところがあったのか、とにかく自立せよ、と言うのが教育方針でした。
母は四年制大学を出ていましたから「女の子は短大でいい」などと言う発想はまるでなく、大学進学は当然のことでした。
「女の子だからおしとやかにしなさい」といわれたことはありませんし
「実家に帰ると親が結婚しろとうるさい」ということも体験したことはありません。

女性の不利益は当然にあり、それを前提に自分で生き延びる力をつけなさいという教育を受け、無自覚にその力を伸ばしていたようにも思います。
母は子供時代貧乏で夜逃げをしたこともあるそうで、そういった過去の自分の苦労を私にさせまい、と色々なことを考えていたようにも思います。
とにかく生きていけるだけの金を自分の力で稼ぎなさい。
これが何より最優先でした。

フェミニズム、女性の権利と言われた時に耳を塞ぎたい気持ちになるのは、そうやって必死に積み上げてきたものが、勝ち取る必要のなかったことと否定されたように感じたからかもしれません。
ただこれは、私のフェミニズムに対する認識不足でしかありませんでした。

タイムラインにシオコさんがあげてくれた上野千鶴子さんの東大の祝辞動画を見て、わたしは少し泣きました。
(↓まだの方はぜひこちらから)



全文:まゆたんより入手。ありがとうございます!

この祝辞が心に触れたのは、自分ががんばって報われてきたきたからかもしれませんし、
社会はがんばっても報われないなと感じていたからかもしれません。
がんばりたくてもがんばれないという友人に手を差し伸べられなくて、後悔したことがあるからかもしれません。

大学一年生の時にこれを聞いても私は何も感じなかったと思いますが、今の私には心に響くものがありました。

ここ数年は、ああがんばるのも限界だなと感じていました。
それもあって長年勤めた会社を辞め、転職してみたものの半年もすれば新しい仕事を覚え結局必至で仕事をしてしまう自分に気づいたりして、ああ私の自由を縛るものは母ではなく自分自身だなぁと感じたりもします。

フェミニズムについても、女性の権利を叫ぶものくらいの認識しかなく今回初めて「弱者」のためのものであるという定義を知り、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想というものに興味が湧きました。

そんなわけで、また次回も参加したいと思います。

だいぶ長くなりました。
もっと書きたいこともあるような気がするのですがまとまらないしキリもないのでこの辺で・・・。
ここまで読んでくれた方おられましたら、ありがとうございました!